2017.11.03 00:29

 あたりまえではあるのですが、10月31日のハロウィーンの日も通常授業はありました。渋谷界隈はやはり騒然としていましたよ。なるべく早く帰りたかったのですが、この日は月の最終日で先生方の書類をまとめないといけなかった。いわゆる「しめ」という作業がある。
 で、どうしても遅くなってしまう。それでも頑張って何とか23時前には仕上げました。表に出るとーー教室のあたりはまだ静かなのですがーー駅に近づくにつれ大騒ぎになってきました。山手線の改札口には人だかりができています。
 
 私は昔からそういった騒ぎそのものにはつねに好感を持っています。騒ぎたまえ、きみ100年も生き難しですよ。
 ただこういうことがある。人間には固有の周波数というものがあるように感じます。近い周波数の方とは共鳴する。遠い周波数の方とは何となく距離がある。そういうものではないでしょうか。もちろんどの周波数が正しいとか正しくないとかではないですよ。いろいろな方がいらっしゃっていい。それこそが多様性による豊かさですからね。
 
 また周波数というのは場所や仲間やそのときやっていることなどによって、微妙に変化していくように感じます。完全に変わってしまうことはないでしょうが、周囲の影響は確実に受けている。ですから真面目な方がついつい仲間につられて信じられないようなばかなことをしでかしてしまったりする。ご本人だけの責任というより、場としての何かが大きく関与している。
 改札口でそういうことを考えた。むりして満員電車に乗る手はあったのですが、たったいままで大騒ぎしてきた仮装姿の彼らと書類のしめをしていた私では、あまりにも周波数が噛み合わないような気がします。
 
 私もわさわさした車内で彼らとくっつくのはこの状況下では苦痛でしたし、彼らにしてみてもスーツ姿の勤め帰りのサエないおっさん(私)とぎゅうぎゅうづめの山の手線内で隣り合わせになるのは不快でしょう。そういう予感があったので、電車にむりに乗りこむ気持ちになれませんでした。
 で、最終のバスで中野まで移動することにした。中野坂上経由なので途中下車もちょっと考えたのですが、荻窪よりは西荻窪に出たいので中野まで行ってしまったほうがよさそうです。
 
 渋谷のエリアをバスが脱するまでに20分以上かかりましたよ。スクランブル交差点のところも通りました。大群衆を大勢のおまわりさんがロープを利用してさばいていました。パーティーバスというのがすぐ前を走っていて、中でたくさんの方が音楽に合わせて踊っているところが見えた。
 繰り返しになりますが、そうした行為はーー自分は参加しなくてもーーつねに好ましいものとして見ています。
 楽しみたまえ、きみ100年も生き難し。
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2017.11.02 00:12

 ときどきご質問をいただくので、私がどのように少数派としての人生を乗り切って(?)きたかということを書いてみます。非掲載希望でコメントをくださる方が少なからずいらっしゃって、その方たちの幾人かと自分には共通点が多々あるように感じます。応援したい気持ちはつねに持っています。
 たとえば幼少期や小学生時代ですね。私は野球やサッカーにまったく興味を持ちませんでした。面白そうだという気持ちを持たなかった・・・というより持てなかった。
 
 私は女の子と話しているのが好きでした(いまもその傾向はあります)。幼いころはそれこそ「おままごと」が楽しかった。少年期になると女の子と芸能関係の話なんかをよくしたものです。タイガースとテンプターズとどっちが好き? ビートルズとウォーカー・ブラザースでは?
 周囲の少年たちは休み時間や放課後に野球やサッカーに興じています。女の子とだけ話していたら完全に孤立しますから、やりたくなくてもときどき校庭には出ていった。そして「いやいや」競技に参加しました。
 
 いやいやですから上手なわけがないですし、上手になろうという意志もない。仲間はずれにはならないですむかもというメリットだけはあったかもしれません。
 中学に入るとーー男子校でしたからーーもっともっとひどいことになった。唯一の救いである女の子が存在しません。絶望的な状況の中で、体育大会などに参加する。途中でうんざりして教室に戻って寝たりしていました。マラソン大会で全校生徒がすでに着替え終わって集合し、校長先生の訓示をいただいているときにダントツの最下位でのろのろ戻ってきた話は以前ブログにも書きましたね。
 
 あれは私の人生を象徴する事件だったと思います。怒られさえしない。笑われさえしない。こいつは何だ? という感じですかね。
 実際、何だ? といちばん困惑していたのは他ならぬ自分自身なのですよ。自分はいったいどうしてこうなのか。そしてある時点から、もうまったくはぐれて生きようと決心しました。あと押ししてくださったのは、芸術活動をされている先達ですね。いるわいるわ・・・音楽(とくにロック・ミュージシャン)、文学(とくに私小説作家)、美術、演劇・・・どの世界にも規格外の生き方をされている先達が大勢いらっしゃった。
 
 成功できるかどうかはもはやたいした問題でないような気がします。またこの生き方では世間で言うところの優等生や出世はちょっと難しいかもしれません。ただそもそも優等生や出世に(私がスポーツにひかれなかったように)魅力を感じられない方も多いでしょう。
 常識的な意味では礼儀正しく生活しながら、本音の部分で自分の美しいと思ったものや好ましいと思った人たちに正直に寄り添って生きられる人生は本当に幸せです。
 皆さんと同じにならなくてもいくらでも幸福になれますし、その幸せこそがいちばんの報酬ではないかと思いますよ。
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2017.10.31 03:17

 ある学校の説明会で、ご担当の先生がご自身がどれだけ頑張って学校のために予算をとってきたかというお話をされていました。事実、そのおかげで学校のすべての設備が本当によくなっています。その先生がいらっしゃらなかったら生徒も先生も保護者の方もまだまだ不自由な思いをされたでしょう。
 予算というのはある程度の覚悟を持たないとどんどん削られてしまうものだと思います。有能な先生であれば、やはり母校のために張り切って主張すべきところは主張していくでしょう。
 
 私ならどうしただろうということをちょっと考えた。おそらくーーというより間違いなくーー私であれば、皆さんも大変でしょうからと母校の利益を主張しなかっただろうと思いました。そして、帰ってきて「みんな大変そうだから我慢してあげようよ」と周囲に告げたでしょう。
 これはもちろん世間で言うところの「無能」ということになるのですが、私はいつでもどこでも相手がどなたであっても譲ってしまうところがあります。
 
 現在の教室でもそうです。数年前に比べて大変になっている部分がある。ひょっとすると教室長の私が強引に抵抗すればそうはならなかったかもしれない。しかし、私は全体のパランスを考えてめったなことでは反論しません。部分(私)は全体(会社という意味ではなくもっと広義の全体)の一部であるからには、全体の意志はそうは間違えてないという変な信仰(?)があり、それでいいとすぐに考えてしまうのです。
 幼いころから私はこうでした。両親はこういう私の性格をいやがり「言いたいことははっきり主張しなさい」とよく注意されました。
 
 言いたいこと? 私にはそもそもそういうものがほとんどなかった。ただ「言いたいことを言いなさい」という他人の意志の中にこれこれこういうことを言ってほしいらしいというものが透けて見えるので、言いたくもないのに何かを主張していた時期がありました。
 現在私の周囲の仲間は私のことをよくわかってくださっていますが、それはまた彼らが私に対して親のように過大な期待を抱いていないからでもあります。他者を冷静に理解するためには距離感が必要なのです。
 
 私は教室の利益を第1に考えています。と同時に私個人の利益と他者である世界全体の利益を第1にも考えています。すべての第1の接点で・・・という気持ちを持っているのですが、すると非常に曖昧な地点に行きつく感覚があります。
 この生き方を正しいと主張する気持ちは自分にはまったくありません。私は私としてしか生きられないというある種の悲しみと諦めと僅かばかりの誇りの中で、今日もまた生きているという感じでしょうか。
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2017.10.29 06:49

 あれはいつのころまででしたかね。少なくとも大きな駅には伝言板というものがありました。黒板ですね。チョークも置いてある。
 待ち合わせで行き違ったりしたときに連絡をとるために伝言を書いておくのです。時間も書いておく。ちゃんと枠が作られていて、10人ぐらいは余裕で伝言を残せました。たとえばこんな具合です。「先に行っている、長野。11時15分」という感じ。もうちょっと複雑なものもありました。つねに3割ぐらい埋まっていた。数時間経過したら消しますというような注意書きが書かれていました。
 
 その伝言板というものを読むのが好きでした。中学生のころです。これは女性の文字だなと考えたりしながら読む。ときどき「どうして・・・14時30分」みたいなどきりとする記述を発見した。どうしてのあとはどうなっちゃったんだよーとわくわくしたものです。待ち合わせに相手があらわれなかったのか、それとも不特定多数に向かって何かを発したかったのか。ありとあらゆるパターンを想像する。
 ついにはいたずらで自分がでたらめの伝言まで書くようになりました。さよならと書いたことがある。遠くから見てじーんときた(病気かよ)。
 
 詩を書くような感覚でした。もちろんそんなでたらめを書いてはいけないのですが、人気のない時間帯を狙って書く。4時間も待っていましたと書いてみたこともあった。あとで見る人が感動してくれるような気がしたのです。ここで4時間も待っていた人間がいるのかと。
 本当はどなたのことも待っていない。実際にはどなたかと伝言板で連絡をとりあったことは1度もなかったと思います。
 
 いまは携帯電話ですぐに連絡がとれますからね。行き違うということにはほとんど不安がない。何かの会合でお約束の時間に待ち合わせの場所に着けなくなったとしても(私は用心深いので交通機関が止まってもだいたいは間に合うのですが)幹事さんにでも連絡すればまったく問題ない。
 便利ではあります。ただどうなのかな。駅の掲示板で連絡を取り合っていたような不便さの中には、何かしらいいものも含まれていたような気はします。
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2017.10.28 01:05

 ちょっとした問題が起きたので、ある生徒と話をしました。注意する類の話なのですが、単純に「何々してはいけません」「何々しなさい」では相手の心の核の部分にはまったく届かないでしょう。
 たとえば学校ではいろいろな決まりごとがあります。廊下を走ってはいけない。授業中に騒いではいけない。トイレを故意に汚したりしてはいけない。遅刻をしてはいけない。特定の人間に意地悪をしてはいけない。
 
 仮にこうした規則を次々とやぶっていく生徒がいたとします。その生徒を呼んで1つずつ規則を説明すればよくなるものでしょうか。「廊下を走ってはいけないよ」「授業中は静かにしていないといけないよ」・・・1つずつ説明して守らせたとしても、それで人間の質がどれだけ向上してくるかは、はなはだ疑問です。
 ただ「走らない」だけ、ただ「騒がない」だけになりませんか。理由を訊けばおそらく「注意されるから」と答えるでしょう。
 
 私は呼んだ生徒にこういう意味のことを言いました。「全面的に支持者だ」と。この支持者というのはいま相手がしていることをすべて認めるという意味ではなく、彼(彼女)の成長を全面的に支援する立場であるという意味です。どんなささいな出来事も、すべて成長の糧になるよう協力するということです。
 ですからその事件も単純に「何々をするな」とは言わずに、その程度の人間でいいのかどうか考えてほしいと伝えました。彼(彼女)には大きな夢がある。
 
 夢の実現のためにいま勉強しているわけですが、それほどの夢を持つ人間が、この程度のことを面白がっていてよいのかどうか。もっともっと高潔な志を持つべきではないか。徳の高い大きな人間になろうという意志を持つべきではないか。
 いま何をすべきかがわからなくなっていらっしゃる方は、大成したご自分を想像して質問してみてください。どうしたらいいですか? と。そして大成したご自身がやりそうもないことは、いまもやらないほうがいい。静かに思いをめぐらせば、ちゃんとわかっているものなのですよ。
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2017.10.27 10:33

 20代のころ勤めていた大手塾では体罰が容認というよりむしろ奨励されていました。いまの世相からはちょっと信じられないですが、当時は保護者の方も「何かサボっているようなことがありましたらゴツン! とお願いします」ぐらいのことはおっしゃっていた。
 私はーー育ちと関係あると思いますーーとにかく体罰を与えるのは苦痛なので、そういうことをしない。するとまだ若かったので子どもたちからちょっと舐められている感じがするときはありました。
 
 この先生は楽だという印象なのでしょう。遊んでいたって口頭で注意するだけだから・・・というわけです。
 当時、先輩の先生方にいろいろ相談することもありました。特定の生徒が騒いだり宿題をやってこなかったりする。すると予想通り「ぶん殴ってやれよ」という乱暴な返事が返ってきた。「甘やかしているとどこまでもつけあがるよ」と言う。何だか愛情があるのだかないのだかわからなくなってきます。
 そのとき、おれは帰しちゃうよとおっしゃった先生がいました。
 
 何のために来ている? 宿題もやらずにただ騒ぐのなら帰れ! と帰していると言うのです。それは複数の先生も同調されていた。みんなの邪魔になるような生徒は、そもそも塾をやめてもらってもけっこうだという話が出ました。
 この「帰れ」というのは実際に私も使ったときがあります。もちろん2度や3度の何かでそんなことは言わないですよ。ただ度重なると、ほかの生徒まで「やってこなくても大丈夫そうだぞ」と考えたりする。そこで思い切って「帰れ」と帰したことがありました。効果はありました。翌週からは見違えるように真面目になった。
 
 ご自宅から抗議があればきちんと説明するつもりでしたが、とくに何もありませんでした。まあ、ふだんは穏やかですからね。あの先生が帰すということは、よっぽどまずかったのだと感じてくださっていたのかもしれません。
 ただ現在の私はまったくそういう発想を持ちません。そもそも叱らない。する必要がないからです。私語はかすかに「あるときもある」程度。騒いでいていいのだという確信犯的な生徒はいません。
 
 体罰ではなくても帰れというのはやはり暴力的です。暴力的な言動は確実に相手の何かを損なうという気持ちをーー最終的な結論としてーー私は抱いています。あくまでも平和的な手段しか選択するつもりはありません。
 
 
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2017.10.25 09:18

 新人類という言葉が昔流行りましたね。上司に残業を命じられたときに「今日はデートですから残れません」と帰ってしまうようなタイプの若者を揶揄する称号ではなかったかと思います。まあ、そういう方はいらっしゃるでしょうね。大昔ですが、私が保護者の方と面談して受付に戻ってみたら教務の方が帰ってしまって無人だったということがありました。当日、その方は午後4時までの勤務予定でした。面談も4時までの予定だったのですが、少しだけ延びた。延びたと言ってもほんの5分10分ぐらいです。
 
 私みたいに古い人間だとそれぐらいは待っていてよーということになるのですが、帰ってしまわれた。
 面白いのは、その方はーーすでに退社されていますーー不真面目ではありませんでした。遅刻や欠勤などはせずにきちんと働いてくださる。仕事もできない方ではない。ただ周囲がどんなに忙しくしていても、定時にいらっしゃって定時に失礼しますと帰っていかれます。感覚の違いみたいなものは感じましたが、まあそういう人生観の方もいらっしゃっていいのではないかと私は考えていました。多様性こそ豊かさですから。
 
 電車の中でお化粧したりものを食べたりする方についてもあれこれ批判されていますが、私はとくに嫌悪感は抱きません。確かに私の育った時代は外で何かを食べるだけで行儀が悪いと叱られたりしましたが、においの強いものでなければ車内で食べてもそんなに迷惑にはならないですね。お化粧もーー向かいで大真面目にされると笑いそうになるのですがーー大迷惑というわけでもないですね。私は寛容な人間でありたいのですよ。
 私だって新幹線の車内でビールを飲んだりしていますが・・・それはまた少しべつの話になるのかな。
 
 今回のニュー・タイプはそうしたお行儀がどうのこうのとは関係のない新型人類です。
 先日、ある飲み屋さんでこういう方を見ました。私はカウンター席に座っていた。その方は私の隣に座りました。30代前半だと思います。ラフな服装でしたよ。日本酒を頼み、次にメニューを見てこうおっしゃった。「さんまの塩焼き、塩つけないで焼けますか?」
 え? と思いましたよ。お店の方も驚いたらしく「できることはできますけど・・・」と困惑しています。
 
 男性は「じゃあ、塩つけないさんま焼きください!」とにこやかに注文した。お店の方は「本当にいいんですか?」と念を押していました。
 塩のついていないただのさんま焼きが運ばれてくると彼はじつにおいしそうに食べていました。食べ方はとてもきれいでした。
 見た感じは非常に健康そうで、塩分摂取がどうこうということではないような気はしました(ほかのおつまみはそのまま食べていらっしゃったので)。
 
 焼魚に一切塩をつけない、醤油もかけないというのはニュー・タイプです。焼魚の味そのものがお好きなのでしょうね。ちょっと訊いてみたかったのですが、いかにも酒場のおじさんみたいなので何も質問しませんでしたよ。
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2017.10.24 09:03

 先生方があれこれ生徒のことを話されているのを聞いていると勉強になります。私もだいたいのことはわかってはいるのですが、やっぱりそうか・・・と自身の認識を改めて補強してくださる話がしばしば出てきます。
 先日、私が担当したことのない女子生徒のことが話題になっていました。すごくできる子なのですが、先生同士の会話で「だってあの子は大人だから」という話題が出てきました。ある先生がこうおっしゃった。
 
 今年の夏休みも50冊読んだと言っていましたよ。
 その生徒のこれまでの言動から考えて、けっしてはったりの類ではないと思います。ひょっとするとひかえめな数字かもしれない。同時に私も年間400冊以上読み続けてきたという生徒を知っていますから、休み中であればむりなことではないと思います。
 夏休みに50冊読むような生活を送っている。彼女だって部活はなさっているでしょうし、学校の宿題、塾の講習、いろいろなことがあった。
 
 それでも自ら50冊を読む。そこに知への渇望というか、教養への欲求というか、頭のなかで物事をふくらませることの喜びというか、そうしたものがある。それに時間を費やすことをまったくいとわない。
 会話だけでは人間そうは大人になれないものです。とくに同世代との会話。もちろん友だちとの会話は大切であり、楽しめるだけ楽しんでいいですよ。ただお互いに熟知した言葉をやりとりしているだけでは、大人の階段をのぼっていることにはなりません。
 
 少年少女期には未知の言葉や表現、概念との出会いが必要であり、それはやはり会話ではなく活字からということになるでしょう。
 今週私が担当した小6のあるクラスの教材にたとえば「想像すらできない」という表現が出てきました。こういうのは話すときは「想像できないよ!」と熱意をこめて伝えればすんでしまいます。熱意をこめて表現できない活字だからこそ「すら」をつけて強めた。こういうことに気づけるかどうかという話をした。それが大きいのです。
 
 読まないことにははじまらないというお話は何度も何度も繰り返しています。それでも読まない自由はもちろんどなたにもあります。ただ勉強ができるようになりたい、国語ができるようになりたい、いい作文が書けるようになりたいということであれば、大前提はまず読むことです。まったく読まずに大人の観念を身につけ優等生になり、国語も作文も大得意という生徒を私は知りませんが、そのあたりは個々人が判断してくださったらいいと思います。
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2017.10.23 08:39

 先日、身内からあることを訊ねられた。私が4歳になる以前のことです。覚えている? という質問なのでちょっと考えた。これこれこういう子を知っているかという内容でした。少しして相手について記憶がどんどん湧いてきました。はじめはどうだったかなぁ・・・ということまで鮮明に思い出した。その子の住んでいたところ、家族構成、私とはどんな風に遊んでいたか(私はその子にいいところを見せようとして、大きな川に転落したことがあります。怪我をしなかったのは奇跡だと驚かれました)。そしてなぜ別れてしまったのか。
 
 色白のかわいい女の子であったことまで思い出した。こういう話をすると記憶力がいいとおっしゃってくださる方がいらっしゃるのですが、私の記憶は非常にまだらになっていて、全然覚えていない期間というのがあるのです。全然と言ってももちろんどこで働いていたかぐらいの記憶はありますよ。
 ただ日記を読んでみても、何のことだかわからないということがたびたびあります。だれそれとどこどこに行ったと書いてある。そのだれそれさんがわからない。どこどこがどこのことなのかわからない。
 
 こうやっていわゆる「会社員」(職種は先生ですが、身分的には会社員です)になる以前の記憶と言ったらいいのでしょうか。とくに30代の半ばから40代前半ですね。自由気ままに生きていたのですが、自由すぎて正確な足取りがわからなかったりします。会社員であれば毎日一定の時刻に一定の場所に行きますから、この年はどうであったと輪郭がわかりやすい。
 ところが塾の講師と家庭教師だけをやっていた時代は(この子の自宅ってどこだったっけ?)みたいなことが起きる。生徒自身は覚えているのです。ただ家庭教師先の自宅の場所はまるで忘れてしまったりしている。
 
 1つには確かに飲酒の影響があるでしょうね。当時は飲んでばかりいた。いまよりはるかにだらしない生活でした。意図して「だらしなく」生きていました。本質的に私はそういう人間なのです。仕事をサボったりするときもありました。コンサートに行くために授業を休んで上の方から叱られたりした。馘首されたらされたでいいやという気持ちはつねにありました。
 私の日記はメモみたいなもので、場所と時間と人名ぐらいしか書いてない。するとあいつ・・・東京から出て行っちゃったんだっけ? とは思い出すものの、理由も時期もわからなくなっている。
 
 幼少時のおつきあいはまだ人間関係もシンプルーー親子関係ぐらいしかありませんからーーなところに入ってくるので、希少価値という意味で濃密な感覚になるのかもしれないですね。それにしても4歳のころのことを鮮明に思い出せて40歳前後はよく思い出せないというのは、我ながらどうかと思いますよ。
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2017.10.22 00:42

 教科書より少しだけ文章が難しくなると「古文が全然わからない」という人がいます。相手によってアドヴァイスは変えますが、古文がわからないと言う人はだいたいにおいて国語の力が弱い傾向が強い。ですから、もちろん現代文でいいですから日ごろからとにかく文章を読みなさいということになります。日ごろから文章を読んでいないと、展開についてのある種の勘が養われません。文章を読み慣れている人は、無意識のうちに先の展開を予想しているものです。こうくるなという予知能力(?)がついてくる。それは古文でも現代文でも同じです。
 
 一般的に詳しい古典文法はふつうの公立中学では習いません。先生によっては面白がってお話してくださることがあるみたいなのですが、定期試験には出てこないので皆さんあまり真剣に聞いていない。ましてや自分のものにしていない。
 そういう状況下で古文をわかるようにしたいということであれば、まず古文そのものを音読することが大切です。繰り返し音読する。そのうえで現代語訳と「ご自身で」ていねいに見比べてみてください。舐めるように一字一句を見比べる。
 
 たとえばこういうところ。昨日私は授業でやりました。「朗夜のけしきいふばかりなし」とありました。現代語訳を見てみます。「気持ちよく晴れた夜の様子はとてもすばらしいものであった」と書いてある。
 何か感じませんか? 「いふばかりなし」を直訳したらどう考えても「とてもすばらしいものであった」になるわけがないですね。するとなるほどこういうところは夜の雰囲気のよさを表現するわけなので、大胆に「すばらしい」と訳してしまってもいいのだな・・・とわかってきます。
 
 こういう経験を1つずつ重ねていくとかなりわかってきます。単語なんかもそうして気づくことが多々あります。へええ、つれづれなりというのは退屈という意味なのか。するとつれづれぐさというのは・・・退屈で書いたという側面もあったのかもしれないなという広がりが出てくるでしょう。
 こうした地道な作業をいやがってはいけません。しばらくはこんな感じで慣れていく。高校に入ったらさらに緻密に単語に分けて考えていく必要が出てきます。ただとりあえずは高校入試が目標です。極端に緻密にやろうというのはーー時間があればいいのですがーーもう少し先でも大丈夫は大丈夫です。
 
 慣れてくると同じ10分間かけるのであれば、現代文より古文のほうが得点を稼げるとおっしゃっていた優等生がけっこういました。訳せなくても点はとれるようになってくる。頭からだめだと決めてかからないことが大切ですね。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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