2017.02.18 00:20

 昔の文章のいくつかを自宅でパソコンに保存し直しています。フロッピーで保存されていたりしたものですね。40代に書いた原稿(いちおう完成品だと考えていました)が多いのですが、入力しているとやたらと直したいところが出てきます。
 本筋は変えたくならないのですが、細かい表現はあちらこちら変えたくなる。「心をこめてさようならと言った」を「心をこめてさよならと言った」に変えてみたり。「う」をとるだけで相当違ってきます。
 
 私はじつは話し方についてもいま気になっている部分を意識的に直しています。直していることは家族でさえ気づいていないと思うのですが、どうしても気になるところがあるのです。いままでどなたにも指摘されたことはありませんから、致命的な欠陥ではなさそうです。ただ致命的な欠陥ではなかったとしても、私の理想からするとちょっと問題ある部分が残っている。それをそのまま放置しておいてはいけない気がするのです。
 急激に直そうとすると調子が狂うでしょうから、時間をかけて矯正していくつもりです。
 
 そういうことがまだまだいっぱい残されている。
 歳をとるともっとのんびりしてくるものかと思っていました。ところが食べ方だとか歩き方だとか話し方だとか、要するに自分がすでに「所有した」と思っていた生活の基礎的部分が納得のいく形では所有されていなかったことに気づいてしまい、死ぬまでに少しでもましにしたい気持ちになるから不思議です。
 こういう形で人生のテーマが出てくるとは予想もしていませんでした。
 
 文章なんかはおそらく直しても直しても少したつと不満な部分が出てくるでしょうね。書いたものでさえそうであれば、話すほうを理想に近づけていくのはさらに大変かもしれません。
 そう言えば先日歯医者さんでーー調整に調整を重ねて今度こそ本当に奥歯が入りましたーー唾を飲みこむときにあるクセがあるから注意したほうがいいと言われました。私自身はまったく気づいていなかったのですが、いまのままだと歯にダメージを与える(?)可能性があると言われました。
 
 ここでもかよー! と思いましたよ。そんなことでさえやり直さないと。
 要するに一挙手一投足すべて意識しなおす必要がある。数値になる目標ではありません。たとえばこうやって教室で仕事をしている以上、数値による目標ももちろんありますね。ただ数値による目標を達成しながら数値にならない個人的な目標も達成していかなければ、本当の意味で進化していることにはならないのでしょうね。
 
 
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2017.02.17 01:40

 先日、教室に手紙が届きました。お名前を見るとはるか昔に教えた生徒と同姓同名ではないですか。その生徒のことを何から何まで覚えていたわけではありませんが、こちらを信頼してくださっていたので印象に残っていました。
 教えていたのは1982年です。まだ昭和も昭和。封筒を開けるときひょっとしたらご本人かもしれないという予感が頭をよぎりました。開ける瞬間に強くそう感じたのは何かありますね。
 
 果たしてご本人でした。当時の中3生。びっくりしましたよ。私は西武新宿線沿線の塾で週に3回教えていました。ほかの曜日はべつの塾でも教えていましたが、どちらかと言うと生活の中心はそちらでした。
 よくわかったなとびっくりしたのですが、ブログがご縁になっていた。ブログをはじめてから連絡をいただいた中では、いちばん昔の生徒だと思います。驚きはしましたが、手紙を読んでとてもうれしく思いました。彼女は翌1983年に都立高校を受けています。国語は満点(!)だったそうです。
 
 おかげさまでみたいなことが書かれていましたが、私が教えれば「全員」合格点がとれるわけではありません。やはりそこは彼女の天分と努力ですね。
 正確には覚えていないのですが、はじめはいくら何でも満点がとれるほどの学力ではなかったと思います。そんなにできれば、そもそも塾にいらっしゃらないでしょう。何でもとても丁寧にこなす生徒でしたから、入塾後の伸びは非常に大きかったと思います。いつも書いていますが作業が乱暴ではだめなのですよ。丁寧さだけが魂まで届くのです。
 
 お返事を書きました。まあ、どこかで1度はお目にかかって話してみたいですが、当時私は20代でしたからね。よろよろよろと60代の自分が出ていくとあちらはショックを受けられるのではないかと心配です。
 お仕事は中断し、いまは大学院で文学を勉強なさっていると書かれていました。そういう趣は当時からありましたよ。文学的な話をじーっと聞いている感じ。じーっと・・・というところに知的好奇心の大きさを感じたものです。本質は変わらないですね。
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2017.02.15 07:52

 日記というものを過去何度か書いています。いまも何となく書いてはいますが、事実の羅列のみでそんなに深いことは書きません。あとで見て、こんなことがあったなと思い出せるように書いているだけですね。
 小学生のとき「心の日記を書こう」と提唱されていた国語の先生がいらっしゃって、確かにそういうのもありだとは思うのですが、心の揺れそのものが少なくなった現在、感情表現はむしろ慎みたいという気分になるのです。
 
 たとえば1980年代中盤ごろの日記を読み返してみるとじつにいろいろなことを忘れていることに気づきます。昔の知人が、いまはもう住んでいない場所があります。由緒あるおうちだったのにどうなったのだろうと常々不思議に思っていました。引っ越す事情でもあったのだろうか。
 30年前の日記を読んでいたら、偶然理由が書いてありました。けっこうショッキングな内容だったのですが、私はそのことを完全に忘れていました。
 
 前も書いたように、少年期のことはけっこう覚えているのです。代々木公園に女の子といたときに遠くのラジカセ(当時は音楽を聴くためにラジカセを持って外出している若者がたくさんいました)からチェイスの「黒い炎」が流れていたなどということは覚えている。バス停で憧れていた女の子に最後に会った朝、自宅のFEN放送で聴いた曲はトム・ジョーンズの「愛の誓い」だったということは覚えている。
 ところが30代に入ってからの記憶はあれ? こんなことがあったか、ということばかりです。
 
 当時も事実ばかり書いていましたからお店の名前がしばしば出てくるわけです。ほとんど記憶にない。だいたいは同僚と飲みに行っているのですが、どなたとどんなお店に入ったのかよく覚えていない。飲酒していることが1つの原因ではあるのでしょうね。しかし、それにしても忘れている。
 ひょっとすると忘れたいという潜在意識があるのかもしれません。当時は非常に自由な生活だったので、思い出してうらやましさみたいなものが出てきてしまうことを恐れているのかもしれないですね。
 
 鈍感さというのは生きていくうえで大切な要素で、少年期みたいにむき出しの感受性では大人の社会を乗り切っていけないのは事実でしょう。そこで鈍感になる。鈍感になって、まあいいじゃないかと図太く生きる。
 それでもここ数年のことは、逆にけっこう覚えています。先が見えてきて一期一会みたいな感覚が強くなってきたからなのかとも考えたのですが、やはり日々ブログを書かせていただいていることが大きな理由だと思います。こちらはぜんぶ「心の日記」みたいなものですからね。
 
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2017.02.13 08:55

 今年も新中1生のための準備講座が渋谷教室では昨日からスタートしました。いろいろなコースがあり、いちばん遅いのは3月に入ってからのスタートになります。3日間だけですからね。3日間の授業+確認テストです。
 私もあちらこちらのコースで授業を担当します。ありがたいことに昨日のAコースと20日からのDコースは早くも満員になってしまいました。それだけ教室にたくさんの方が集まってくださるわけで、感謝したいと思います。
 
 テキストはどこの教室でも同じです。授業内容も同じ。先生もいくつかの教室を行ったり来たりしていますから・・・要するに質的には同じですね。迷っていらっしゃる方がいらしたら、とりあえずはお近くの教室をおすすめします。
 おととい私もお邪魔した祖師谷教室にお近くだという理由で渋谷教室から移られるという生徒がすでに出てきていますが、Z会進学教室には教室間格差(?)みたいなものはないので、安心して授業を受けてくださったらいいと思います。
 
 違いがあるとしたら若干の空気みたいなものでしょうか。
 私はかなり意図的に渋谷教室の空気をやわらかくしようと心がけています。もちろん暗い教室など1つもありませんが、もうちょっと厳しく接するべきだという考え方もあると思います。
 いろいろあるわけですよ。授業中寝ているとか廊下で大声を出したとか。ただ常習犯みたいなのはいないので、そう強くは注意しません。何か小さな事件があっても「犯人」を見つけようと躍起になったりはしないということです。
 
 もう何年も昔、設備に対しての小さないたずら事件があったときには生徒たちに手紙を渡しました。いたずらしたい気持ちはよくわかるがまあそう興奮するなと書いた。細かい内容は忘れてしまいましたが、だれがやった? 的なものではありません。1回の手紙でいたずらはやんだのでよかったと思っていたところ、ずっとあとになって保護者の方から「安心した」とおっしゃっていただいたことがあります。やみくもに叱るのではなく、子どもたちの心に訴えてくれたことをうれしく思うというご感想をいただいた。
 
 渋谷教室は「やわらかさ」みたいなものは比較的濃い教室であると思います。これは先生方も皆さんそうしてくださっている感じ。生徒を大人として扱おうという視点を持っていてくださるのでありがたいですよ。
 先生方の授業日誌を読んでいると「少し様子を見て変わらなければ注意しよう」とか「やみくもに叱ると逆効果だろう」とか・・という記述が出てきます。短期的な学習効果だけでなく、大人にしようと考えてくださっているなということがわかってうれしく思います。
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2017.02.12 07:25

 息子は堅実な社会人生活を送っていて2年目に入ろうとしています。とにかく私なんかとは全然堅実さの次元が違う。気質の違いと言ってしまえばそれまででしょうが、ここまで価値観が違いながら仲良く暮らせているのは珍しいことなのかもしれません。
 それは家内も感じていて「まるでわざと逆を行くようだ」と評するのですが、結局お互いがお互いの差異を尊重してきたということなのだと思います。
 
 社会人になってから1年間、いろいろあって大変だったのですがーー終電がなくなってカラオケボックスに泊まり、明け方帰ってきた日もありましたーー私はあまりうるさいことを言いませんでした。うるさいことというのは「新人なのだからあたりまえだ」とか「それぐらい辛抱できないでどうする」とか、逆に「そんなにハードなら新しい勤め先を探したほうがいいぞ」とかですね。本人が考えればいいことで、元気のないときは元気になりそうな話題だけをぽつりと出す程度でしょうか。
 
 いらいらしているときは放っておく。いらいらする必要があるからいらいらしているわけで、そういうとき言葉だけで「いらいらするな!」と叱ったり説得しようとしたり試みるのは愚かなことに思えます。
 同じように、悲しんでいる人間に対しても「まあ、まず思い切り泣きなよ」と言えるのが本当はすぐれたアドヴァイスだと感じます。感情を上手に浄化してから、はじめて論理的な探求がはじまるのですからとりあえずは「泣くといいよ」ですね。
 
 息子は長期的展望まで考えていて、瞬間瞬間のことだけを考えて生きてきた自分(いまでさえそんな感覚があります)とはずいぶん違った一生を送ることになりそうです。
 彼は先輩方(厳しい方もいらっしゃるようです)にとてもかわいがっていただいているのですが、素直だからでしょうね。全然困っていない。その点だけは、育て方がよかったのかなと思います。親があまりにも皮肉屋だったりするとなかなか素直には育ちませんからね。
 
 私自身は父親が大変な皮肉屋でしたから、そういう物の見方を学びました。身近な人間(有名無名にかかわらず)のことをすぐに皮肉るのです。勢いがあるのもいまだけだよとか、あんなことでは将来後悔するに決まっているとか。
 内側でそうした見方を払拭できたわけではありませんが、息子の前では意識的に完全に封印しました。そうした発言を聞かせるべきではないと思ったのです。おかげさまで最近では難しい契約がとれたらしく、無邪気に喜んでいました。
 ありがたいことです。「あひる男」のころとは大違いですね。
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2017.02.11 00:15

 ヴァレンタイン・デーが近づいてきてどこへ行ってもチョコレート売り場が大混雑していますね。デパートの地下にお弁当を買いに行く機会がときどきあり、最近はとにかくチョコレート売り場が大混雑・・・どころかどんどん拡大されていく印象を持ちます。いつもは何もなかった場所までチョコレートで埋めつくされています。
 こうした大騒ぎ(否定的な意味はありません)がいつからはじまったのかよくわかりませんが、私の高校時代も兆しはありました。
 
 ちょうど44年前の昨日、高校生だった私は渋谷で同級生と女の子2人組に会っていました。ダブルデートと呼べるような大げさなものではなかったのですが、とにかく会って3時間半ぐらい一緒に遊んで別れました。土曜日でしたね。
 なぜかそうやって少年時代のことは不思議と鮮明に覚えているのですよ。30代以降のことはけっこう忘れてしまっているというのに。感受性の違いなのでしょうね。
 そのとき1人の少女から「今年はチョコレートをもらえそうですか?」と訊かれました。バレンタイン・デーの話題が出たのです。
 
 私はたまにーーこれは年間を通じてですーー意図的にチョコレートを買うときがあります。純粋に食べたくなるのです。たまにですから高級なものを買うこともあります。高級と言っても何百円ですよ。
 この時期、ちょっと買いにくい気持ちになります。何となく恥ずかしい。女の人と一緒にいれば恥ずかしくないのかもしれませんが、どなたかにチョコレートを買いたいのでお店に着いてきてくださいなどと言ったら「子どもかよ!」と笑われてしまいそうですから、この時期は食べたくても我慢しています。
 
 昨年のバレンタイン・デーは名古屋で講演をしていました。なつかしい。サンくん、元気にしているかな。
 東京駅から帰ってきてすでにバスがなくなっていたので、西荻窪駅からタクシーに乗りました。運転手さんが珍しく女性でした。きれいな方でしたよ。自宅の近くで車を止め料金を支払ったところで、運転手さんが別れ際に小さなチョコレートの包みをさっと手渡してきました。バレンタイン・デーのことをすっかり失念していた私は受け取ったものの「え?」と固まってしまいました。
 
 気づいたあとで、お礼を告げなかったことをちょっと後悔した。
 昨年痛風で足が痛かった時期けっこうタクシーを多用したのですが、偶然彼女の車に乗る晩がありました。以前特別の日に乗ったことを説明し、チョコレートのお礼を言いました。彼女はいつもこのあたりを走っていますと笑顔でおっしゃっていました。
 こういうのって・・・生きてきてよかったような気がします。
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2017.02.10 03:10

 毎年のことですが、都立の推薦入試で最上位グループに合格した生徒が日々自習室に来て勉強をしています。先日は、私のところに質問にも来てくれました。「濡れ手で粟」という慣用表現がありますね。もちろん優等生ですから意味はわかっている。ちゃんと調べる習慣もついています。質問はそうした辞書的な意味ではなくて、どういうニュアンスで使われるのかということでした。もう1つ、やはり慣用表現で中学生はまず使わないものについても質問を受けました。
 
 都立高校の推薦合格の発表があったのが2日です。質問内容から見て非常に地に足がついた勉強を続けられている。
 最上位校を目指している中1中2の方、ご自身だったらできるかどうか冷静に考えてみてください。どういう人が合格できるのか。どういう人が内申でオール5がとれるのか。どういう人が勉強ができるようになるのか。
 答えは簡単ですよ。合格当日から新たに地に足のついた勉強をはじめられる人「だけ」が最上位に来ます。彼らの勉強は、合格のためだけではないのですよ。
 
 私はーーいつも書くようにーーそういう中学生活を送りませんでした。私は私で自分の生きかたはよかったとも思っています。ただそれは私が成績や進学先というものをまったく重視しなかったからであって、そういう観点から見たら大学卒業時に人さまから3年も遅れてしまったような私の学生生活は失敗です。
 こういう記事を書いているのは、皆さん全員が優等生になるべきだと考えているからではありません。ただときどき「自分はやっているのにできない」と言う人がいるので、そのやっているは本当の「やっている」の次元ではないと気づいてほしいとは感じます。
 
 けっこう勉強しているのに成績が上がらない。その「けっこう」はここまでの努力なのかどうか。仮にその合格した生徒にきみは「けっこう勉強しているほうだと思うか?」と訊いたら、間違いなく彼はまだまだ足りないと思うと答えるでしょう。勉強に限らず、上に行けば行くほどそうなってくるものです。まだまだ足りないという自覚が、彼らをどんどん高みにのぼらせてくれるのです。
 
 ことわざなんかにしても表面的な意味だけ覚えればそれでいいと考えてしまうのが普通でしょう。言葉なのだから細かいニュアンスまでつかみたいと考えるのは非常にレベルの高い発想であって、そういう気持ちを持ち続けて勉強している彼らには向上心しかありません。「けっこうやっている」という言葉の背後に隠された(だからもうこれ以上はやらなくていいじゃないか)という甘えた気持ちはないということです。
 
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2017.02.08 09:59

 昨日、祖師谷教室をのぞいてきました。土曜日の午前中祖師谷教室でお話する予定になっています。やっぱりいきなり行って話すのは不安ですので、何となく様子を見ておきたい気持ちがありました。新教室はあたりまえですがきれいですね。
 当日は、おもに勉強をしていく準備段階のお話をするつもりです。どういう資質を育てる必要があるのか、ご家庭全体でどういう方向に気をつけていかれたらいいのか、そういう感じのお話。
 
 勉強法自体はじつはもう提唱しつくしている。先日も書きましたが、ブログでも何百回も書いています。それを片っ端から実践してくだされば間違いなくできるようにはなります。
 ただそれができないのはなぜか。それなりに理由があるのでしょう。方法論はわかっているものの実践できない、実践したくない。勉強はあくまでも作業ですから、やり方を知っていても実践しなければ何も起きません。
 
 昔、将棋を覚えはじめのころ私は上達するには詰め将棋が大変役にたつというアドヴァイス記事を何度も読んだことがありました。しかし棋力が低いために詰め将棋を面白く感じませんでした。いい勉強法だとは知っているけれどもやらない。するとやっぱりなかなか強くなれませんでしたよ。
 本気で強くなりたいと思いはじめてからは詰め将棋にも向かうようになりましたが、それはやはり効果がありました。なるほど、正しく勉強すると効果があるものだと思いました。
 
 ただこういうことはあります。私の家内はゲームが大好きでよく真夜中までやっていました。いまもやっているのかな? そして家内と中学時代の息子と2人はゲームで競ったりするのが本当に楽しそうでした。
 そうした文化的風土は子どもを「うんと優等生にするためには」あきらかに望ましくないと私はもちろん知っていましたが、彼らがそれで幸せであるのなら最高の成績をおさめさせる機会は犠牲にしてもいいだろうと判断しました。最高の方法論を熟知してはいても、自分の家庭にむりに押しつけなかったということです。
 
 この生活だからこの人間だからこの精神だからこの成績である、という要素がじつはすべてなのです。
 たとえば活字をまったく読まず世の中のことを何も考えずお手伝いは一切せず、映像ばかり長時間楽しんで毎日を送っていれば、最高の先生が最高の教材を用意しても成績はさほど上がらないでしょう。その人の全生活が成績に直結してしまうからです。
 どの程度まで全体の骨格を作るかということですね。そういうお話を楽しくしたいと思っています。
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2017.02.06 07:57

 現在私はあまり飛躍したことは考えなくなりました。それこそ少年時代はとんでもないことも考えたものです。いいことも悪いこともそうでした。あれはやはり若気の至りとでも呼べる種類の何かーー妄想のようなものーーだったと思います。
 以前もブログに書きましたね。大昔の日記に自分は2025年ノーベル文学賞受賞を目標に生きると書いたことがあります。そんなとんでもないことをいま言い出したら、周囲に入院を勧められてしまうかもしれません。
 
 ただ少年期はそんなものでした。
 いまも飛躍したことを全然考えないわけではないのですが、地に足がついた感覚は自分の中に残ります。少年期の飛躍の要素には「注目されたい」とか「ちやほやされたい」「褒められたい」という感覚が強くあったように思います。要するに評価されたいということですね。評判になりたいのほうがいいのかな。
 そういう気持ちを強く持ったのは、現実生活によほど不満があったからだと思います。
 
 よく恋愛願望が強烈である人は現実生活に不満を抱いている・・・と言われることがありますね。現実生活からの手っ取り早い逃避の手段として恋愛を「使う」と言っては変ですが、恋愛に逃げこんでいく。私の場合、恋愛にも逃げこめずやたらと破天荒な夢を持ったということでしょう。
 現在の自分に評価されたいという感情が皆無であるかと言えば「皆無」ということはないと思います。やはりどこかでよく見られたいという気持ちは残っている。
 
 ただ自分は強く感じるのですが、たとえば生徒が何か相談に来ますね。それこそやる気を失ったとか元気が出ないとか自信をなくしたとか志望校に落ちてしまったとか。私は彼らと2人きりで話すのですが、そのときほど全力で相手と会話することはありません。実の息子を励ますときとまったく同じ感情で、こちらを認めてもらおうとか偉い先生だと感じてもらおうとか余計なことは一切考えない。正確に書くと激励することに夢中で、そんな余裕はありません。本当に全力で話すので、疲れるどころか高揚してかえって元気になるほどです。
 
 そしてまた冷静に考えて、その瞬間の自分ほど価値のある自分はないとも思うのです。他にもそれなりにお役にたてることを何かしらやってきているのかもしれませんが、彼らと1対1で話しているときの全力さに比べたらどこかしらさめた要素があるような気がします。
 もはや孫ぐらいの年齢の生徒と話すときに真剣になれるということは、私にしてみればいちばんの誇りです。極端なことを書けば、私のしてきたことはそれだけかもしれません。数字になるようなことではありませんが、それで満足です。
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2017.02.05 00:46

 都立高校の推薦入試で結果が出なかった方もいらっしゃるでしょう。本当の勝負はここからですから、落ち着いて勉強生活を続けてください。
 真価が問われています。自分を不合格にするとはいい度胸だ・・・ぐらいに考えて、高得点で合格してくださったらいい。来年、担任の先生に成績優秀だと褒められたときに「これでも推薦で落とされているんですよ」ぐらいにおっしゃってみてください。自分を落としているような「推薦入試」で大丈夫なのですか? というほがらかさをこめて。
 
 そもそも人生、選ぶのはあちらではなくこちらだという信念と気概を持って生きてほしいと思います。私たちが自分の人生を選択しているのです。あちらのものさしに従って人生観が変わってしまうほど落ちこむのは、何かおかしいですよ。
 わかりやすく男女の恋愛でたとえてみましょうか。どなたかにふられたとしますね。考え方として「自分は捨てられた」ではなく、「相手の見る目のなさが気の毒だ」ぐらいに達観してほしいと思うのです。もちろんその見方を証明できるよう、この瞬間からおのれを磨いていかなければなりません。
 
 あなたの世界一はあなた自身に決まっています。他者の解釈で自分の価値をおとしめる必要はまったくありません。
 いちばんよくないのは、他者の解釈で自分を本当にだめだと決めつけてしまうことです。あなたが自分自身をだめだと信じてしまったら、もうだれもあなたを救えません。救える人間は世界中に自分しかいないのですから、他者のものさしなんかあてにならないのだと断言できるように自分を輝かすべきです。あなた自身が輝かせるのですよ。
 
 ずっとあとになってみると安易に選ばれなくてよかったということもまた出てきます。これは中学生の方にはなかなかわかりにくいかもしれない。世の中「ラッキー!」と思っていたことが、あとになるとむしろ「アンラッキー」につながっていたということもあるのです。
 これまた人間同士の交流にたとえるとよくわかります。立場や環境があまりにも違う人間との交流がーー恋愛に限りませんーー非常に負担になるという話はよく聞きますね。出だしは大喜びした。ところが、すぐにそうも言っていられなくなってきた。
 
 学校も同じ。仮に極端に高望みの学校に何かの手違いで合格してしまったとしますね。それこそ毎時間全教科とも大変です。実力が伴っていないうえに授業が難解で優等生に圧倒され続け日々萎縮して生活するぐらいなら、実力相応の学校で努力されたほうがはるかに学習効果は高いでしょう。背伸びという言葉がありますが、日々24時間背伸びし続けることは不可能です。
 入った学校で全力で開花することがいちばんではありますが、ともあれ入りたいところに入る努力を淡々と続けてください。
 
 
 
 
 
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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