2018.04.27 08:25

 20年ぐらい昔でしょうか、「料理の鉄人」というテレビ番組がありました。当時は自分もよくテレビを見ていまして、この番組もだいたい見たのではないかと思います。あるとき画面に自分の妹が出てきました。インドネシアでの収録があり、通訳として出てきたのです。
 簡単に書くと、私の妹はインドネシア語が得意であるということです。ただインドネシア語を話せる方は他にもたくさんいらっしゃるので、なぜ妹に依頼が来たのかはよくわかりません。
 
 何年か前、池袋教室で教えていた秀才Mくん(都立の最上位校から京都の国立大学に進学・・・って何大学だかばればれだな)がインドネシアに留学することになったときも、妹に声をかけてちょっと協力してもらいました。
 インドネシアには妹の知り合いがたくさんいて、彼女は日本で人を集めてインドネシアに連れて行ったり、逆にインドネシアで活動している舞踊団を日本に呼んで公演させたりというような活動をしています(ほかにもいろいろやっているみたいですが、くわしいことはわかりません)。
 
 その関係で、私も会ったことがあるインドネシアの方がいました。男性の舞踊家です。25年ぐらい昔になるのでしょうか。日本にいらしたとき何度か一緒にーーもちろん妹つきでーー食事をした。お酒を飲んだりロックバーをはしごしたりもしました。
 正確な年齢はわからないのですが、同世代で非常に思慮深く、私から見ると日本人に近い感じがしました。おそらく標準から見れば気難しい人間なのでしょうが、そういうところが逆に信頼できる感じもありました。ちゃんと考えている人だなということがわかるのです。
 
 と同時に、ちょっとはにかんだりするところが日本的だと思いました。私に向かって「インドネシアにはいついらっしゃいますか?」と質問してきたことがあり、私は「自分は日本からたぶん出ないと思います」と妹経由で答えたところ、なるほどという感じでうなずいて終わりました。どうして? とは問いかけてこない。そういう奥ゆかしさみたいなものを持っていました。
 今週彼が突然妹に連れられて教室に来ました。来日していて、少しだけ挨拶をという感じでいらしてくださった。
 
 教務の方が大丈夫ですとおっしゃってくださったので、その後妹夫婦とインドネシアの方2人と食事に行きました。途中で、あなた(=長野)のことはずーっと考えていましたと静かにおっしゃっていました。
 家庭教師の先生、渡欧していた昔の生徒、インドネシアのその人・・・というように今年に入って驚くような再会が続きます。「死期が近いのかも」という説もあるのですが、まあそれはわからないですね。ただ、生きているこの瞬間を充実させていこうとは思います。
 
 
 
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2018.04.25 00:16

 先日、息子がひとり暮らしをしたいと言い出しました。現在の勤め場所に近い吉祥寺に住むということだったので、それならそれでいいよと許可しました。許可というのも・・・相手はもう大人なのでおかしいかな。賛成したということです。
 本当はこのままでもいいのかもしれません。いま住んでいる西荻窪と吉祥寺はJR線でひと駅です。私も家内も息子の生活などにはまったく口出ししませんから、いまのままでもとくに問題はないのではないか。
 
 でも、そういうものでもないのでしょう。やっぱりひとりで暮らしてみたいと言い出した。彼がひとり暮らしをはじめるとなるとーー私自身のときと違ってーー掃除とか洗濯とか全然やらないのではないかという危惧はあるのですが、それはまた自由なのかもしれません。どれぐらいだらしないかというのも個人の自由だとは思います。
 犬が不思議がるかもしれないですね。どういう形であっても息子と犬は日に1度は顔を合わせていました。それが突然いなくなるわけですから、どうしたのかな? と不安がるような気はします。
 
 お祝いを少しあげました。長くそこで暮らすつもりなのかどうか私にはわかりませんが、とにかく部屋を借りたり引越し屋さんの手配をしたり、ぜんぶひとりでやっていてこちらに援助を・・・などとはまったく言ってきませんでした。ですから、純粋なお祝いです。
 私が夜中に帰ってくると息子は気づく範囲で「おかえりー」と挨拶してくれました。すでに休んでいたりするときは部屋の電気は消えたままです。寝た姿勢のまま「おかえりー」とだけ言う。
 
 小さいころから家族間でつねに挨拶だけは交わしてきました。行ってきますとかお帰りとかおはようとかおやすみとか。きっかけは記憶に残っていませんが、たぶん家内がはじめたのでしょう。気持ちが安らぐのでーー本当にそういう面は大きいですよーー私も必ず挨拶を返すようになりました。その「おかえりー」が聞けないと思うと、ちょっと寂しいですね。
 ブログに「あひる男」という記事を書いたことがあります。2011年の11月23日でした。
 
 あひるから電話がかかってきたとだまされていた幼児がついに独立か・・・と感慨深いものがありますね。まあ、終始応援していくだけですが。
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2018.04.23 08:36

 善行と書くとちょっと違和感があるのですが、世の中それなりによい行いというものがあります。公道を掃除したりお年寄りに席を譲ったりという一般的なものもたくさんありますが、それぞれのお仕事におけるよい行いというのがありますね。そしてそれはまた細かく規定されていなかったりもするものです。
 お客さんの動向を注視していたほうが気づかないより「よい行い」に決まっていますが、たとえば働いていらっしゃる方が数人いる場所で、やたらと気づく方となかなか気づかない方が混在していたりすると複雑になってきますね。
 
 気づかぬほうが得ではないかという考え方が生まれてくる。同じお給料で仕事量をわざわざ増やすことはないじゃないかというわけです。
 飲み屋さんなんかでも注文を受けているのが特定の方ばかりという状況を目撃するときがあります。「すみません」という小さな声を良心的にみな拾ってしまう。ここは聞こえなかったことにしても問題ないだろうという場面でもとりあえず振り向いてしまう。
 先日も新宿のB(話題の立ち飲み屋さんは新宿店もオープンです)で獅子奮迅の大活躍ぶりを見せている若い女性を目撃しました。
 
 すごかったですよ。何となくぼんやりしている男性アルバイトの方に「こちらお願いします」とか「これ、運んでいただいていいですか?」と次々声をかけていく。本来は彼女がものすごく忙しいのですから、他の方が気づくべきなのです。
 私は、仕事における「よい行い」というのは地位や立場のこととか報酬のことなんかを考えていたら全然活性化されないのであって、それ以外の自己の魂の発露みたいな要素がすごく大きいのではないかと思っています。どんなきれいごとを並べても、結局のところは「その人」でしかない。「その人」が「その人」らしく生きている。
 
 そこまでは自分の仕事じゃないよと考えるのか、この程度のことは仕事以外の部分で助けてあげるのが自分の生き方だと考えるのか。お金になるならない。認められる認められない。世間が評価してくれるしてくれない。昇級するしない。・・・よけいなお世話だよ、自分はいいことをするのだ、自分らしく生きるんだという個人の主義思想はすごく大きいと思います。
 じつは息子の仕事にもそういう要素が出てきました。周囲の大人が何をアドヴァイスしてやれるかですね。偉くなるためにはそんなつまらないことより、もっと大事な何かがあるぞ・・・程度の「大人」が増えてしまったのが、世の中を痩せさせてしまった原因だと思います。
 
 点数や偏差値が1点でも高いほうがすごいという評価軸が、そのまま大人の世界に移行してしまうとこわい。世の中全体が子どもっぽくなっていますね。
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2018.04.22 02:04

 いわゆるディープな何とか・・・というのがよくありますね。一般の方がいらっしゃらないようなところをうろうろする。うろうろしてどなたかに報告する。場合によってはそれをインターネットで流す。
 興味を持った方ーーこれは当然一般人のほうが多いわけですがーーが面白がってその地域に出かけて行く。場合によってはその地域がブームになる。するとあたりまえですが、ディープさは減退しますね。
 
 私が赤羽に行きはじめた前世紀は、まだいまのようなブームになっていませんでした。ですから、たとえばあるお店では新しいお客さんが入ってくると「何々さんの横には座らせないように」などとひそひそ声の司令が出ていたりしました。何々さんはどうも酒グセが悪い。お店のご主人はそのことを熟知していて、アルバイトの方にこっそり指示するわけです。
 逆に言うと、多少問題のある方も複数いてお店は維持されていたわけです。朝から堂々とアルコール類を飲むこと自体、当時は珍しかったかもしれません。
 
 大阪のジャンジャン横丁(ジャンジャン町ともいうらしい)というところも、1990年ごろ平日の昼間はそれほど人がいませんでした。私は飲食関係ではなく、将棋関係であの地域に興味を持ちました。
 最近はすごい行列で有名な串カツ屋さんも、いつでもふらりと入れました。ふらりと入って・・・隣に外国人の親子が座ったことがあります。外見はアフガニスタンとかあちらの方面の方に見えた。父親と10代のお嬢さんと。
 
 注文の仕方がわからないのですね。どちらかというとお嬢さんが主導権を握っています。どなたが食べてもいいキャベツにお父さんが手をのばした。するとお嬢さんは勘違いして、それはこの人のもの! と私を指さした。英語を使っていなかったので私もどう伝えたらいいのかよくわからなかったのですが、身振り手振りで「フリーだ」と示すと安心されたみたいでした。まさかとは思うのですが、お嬢さんが働いていてお父さんを呼び寄せた?
 そんなことが起こりうるような、それこそディープな空間でした。
 
 それが家族旅行をした1999年には串カツ屋さんに行列ができていましたから、ずいぶん変わりました。赤羽にしてもジャンジャン横丁にしても観光化してしまうとちょっとつまらないですね。私も所詮観光客にすぎないのですが、そういうことをちょっと考えます。
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2018.04.21 07:20

 世の中、次から次へと考えさせられる事件が起きています。私なりに感想を持ちますが、道徳だとか規範だとかの問題というよりもうちょっと深い部分での何かなのだろうという気がします。
 若いときーー人間関係男女関係に限らずーー愚かなことはたくさんするわけですね。愚行がただの1つもなかったという方は素晴らしいと思いますが、場合によっては大人しくされすぎたのかもしれません。本来の可能性よりこじんまりまとめてしまったのだとしたら、ちょっともったいない。
 
 一般的には愚行の中で何かを学びますね。そもそも人を好きになるのに、とくに教養はいらないでしょう。どのレベルで好きになるかという問題はありますが、ともかく好きになるのはたいして難しくない。ただいざおつきあいということになると、相当な教養が必要になってくるでしょう。それは学ばないといけない。
 この教養というのは常識だとか世間体だとかルールだとかというのとはまた別種のもので、あくまでも個としての教養ですね。そうしたものが試されくると思います。そしてそれはまた一流大学を出たというようなことだけでは、なかなか身につけられない何かなのでしょう。
 
 深い教養がないと、ついつい品性を疑うような言葉や行動が出てきてしまう。恋愛についての定義はそれぞれ違うでしょうからそれをどうこう論じる気持ちはないのですが、たとえばAさんがBさんを好きになったとして、関係をスタートされるときにAさんだけの倫理観人生観で押し通したらだめなのであって、Bさんがどんな恋愛観なり人生観なりを持っているのかということを声高に議論するのではなくーーそんな恋愛は不自然ですねーー察知するというか洞察するというか、とにかく自分なりに解釈し理解して考えないといけません。
 
 そのうえで違和感があれば、相手のいやがらない方法で自分の好みの方向に導いていく。いろいろ努力してもどうしてもお互い納得がいかないということであれば、それはもう恋愛観人生観が違うわけですから、深いおつきあいにならないほうがお互いのためであるということでしょう。
 立場的に優位だからそのうち何とかなるだろうという感じでは情けない。もっともそれは他者が指摘するようなお話ではなく、ご自身で情けないかもな・・・と気づけるかどうか。そのあたりがそれこそ教養ですね。
 
 昔の男性優位社会のふざけたことわざ(?)に「いやよいやよもいいのうち」などというとんでもないものもありましたからね。ただ当時のそうした社会でも、教養のある方はたくさんいらっしゃったでしょう。時代が年代がということではなく、それぞれご自身がどういう方向で生きているかということだけだと思います。
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2018.04.20 08:22

 本当はあまりよくないのではないかということが、世の中にはたくさんあるような気がします。ただそれを大きな声では言えない。言えないというのは、その部分に依存して生活が成り立っている要素も大きいので、一方的に断罪するわけにもいかないという感じでしょうか。
 食べ物でそうした話題が出てくることがあります。他の先進国では禁じられているものがある。しかし、日本では許可されている。私はそうした類の本も好きなので、え? と驚くこともあります。
 
 そして、なるべく食べないように飲まないようにしている食品はいくつかあります。そんなに神経質になっているわけではなく、どこかで出されれば口にしますが自分からは好んで近づかないということです。何となく避ける。
 ただあまり他人には宣伝しません。家族にもーー話したことはあったかもしれませんがーー強く薦めることはない。そもそも私は息子が喫煙していることもまったく気にしないぐらいですから、あくまでも自分個人で避ける感覚です。
 
 食べ物だけではないですね。何となく避けるものはいろいろあるのですが、どなたかに主義として主張することはありません。ただ行かない、聞かない、見ない、食べない、参加しない・・・ということです。そして、便利さを避ける傾向もあります。
 授業していて感じるのですが、近い将来「先生による黒板への板書」というのは激減するでしょう。映像でわかりやすくまとめてぼん! と出す。それを生徒がノートに書き写す(生徒のほうも書かなくなったら、ちょっと問題だと思います)。そうなる可能性はありそうです。
 
 色つきのまとまった映像だととてもよくわかる・・・となるのでしょうが、それは本当に理解したことにつながるのだろうかという疑問がないでもない。はじめからきれいにまとめられたものを見て理解するのは、すごく省略された頭の働きでしかない気がするのです。
 ごちゃごちゃしたところを指導者の助けを借りながらかきわけかきわけ進んでいって、何とかご自身でまとめていく過程こそが大切ではないか。
 
 かきわけかきわけの質感がないとどうなってしまうのだろう? と思います。私は記述の問題なども出だしの部分と入れるべき要素だけを箇条書きして、あとは自分でまとめておくようにと言うことがあります。文章化した解答をわざと書かないということです。不完全な板書をおのおのがまとめておかないといけないので生徒たちは面倒臭いとは思うのですが、その作業の繰り返しでだんだん書く力がついていくのだと考えています。
 
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2018.04.18 09:18

 うなぎが極端に値上がりしてしまい、いわゆる「うな重」とか「うな丼」とか全然食べていないので、先日あえて渋谷でうな重を食べてみました。いくら高くても絶対に食べると決めていたので値段はどうでもよかったのですが、ランチタイムでもやはり2500円ぐらいしましたよ。
 うな丼がぎりぎり2000円ぐらいだったかな。お客さんは私以外1人だけ。その方が出ていったあとは2人組のいまどき風の(?)若者が入ってきました。
 
 いまどき風というのは・・・仮想通貨だとか海外の株取引きだとか、私のよくわからない話を私の全然知らない用語でぽんぽん話している。それなりに地位があるのではないかと思いました。着ている服もーーおひとりはスーツスタイルでしたがーーかなりオシャレな雰囲気で、まあ人生うまくいっていますね。
 やがて彼らのところにもうな重が運ばれてきた。ふたを開け「お、いいねー」とか何とか活気があります。私はもうそろそろ食べ終わろうかというところでした。
 
 あ! という大きな声が聞こえて、どちらかの方がお店の方にこうおっしゃった。「おじさん、これお醤油なの? タレかと思ってかけちゃったよ」
 じろじろ見るわけにはいきませんが、すぐ横なので細かい事情は伝わってきました。うな重にいきなり醤油をかけてしまったのですね。焼き場にいたおじさんが飛び出してきて「それ、タレじゃないんだよ。ご飯替えてあげようか」とご飯だけ新しくよそって持ってきた。すると何ともう1人の方も「おじさん、おれも醤油かけちゃった」とおっしゃるではないですか。
 
 おじさんはびっくりして「え、あなたも?」と言った。「そう、この人がかけてるからつられてかけちゃった」
 おじさんは苦笑しながらその方にも新しいご飯を出してきました。おかしかったのはここからです。新しいご飯を提供しても古いご飯はもう使えませんから、そのままになっています。2人組はそちらもときどき食べてみるらしく、ひそひそ声で「醤油ご飯、けっこううめーな」「おう、うまいもんだな」という会話が聞こえてきました。
 
 うなぎと白いご飯ともともとのタレに醤油のかかったご飯を交互に食べている。何となく自分もやってみたくなりましたよ。いずれにせよ、久しぶりに食べた専門店のうな重はおいしかった。いわゆる香の物がまたおいしい。値段的なこともあるのでしょっちゅう行くわけにはいきませんが、また夏場にでも行ってみようと思います。
 ただそこのお店・・・店頭の看板に「精力絶倫」と大書されています。オシャレな渋谷の中心部で、そんなこと書かなくてもいいような気はします。
 
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2018.04.17 01:52

 先日、またまた「教科書が読めない子どもたち」という記事の続報を読みました。何度かブログでもとりあげてきた話題ですが、ちょっと騒ぎになってきている感じですね。そこにはやはりスマートフォンが言語機能やコミュニケーション機能をつかさどる脳の前頭前野に悪影響を与えている可能性があると書かれていました。
 東北大学の川島隆太教授が約7万人の児童や生徒を追跡調査した結果というのですから、かなり信憑性があります。
 
 スマホの使用で明らかに学力が低下する。さらにーーこれはちょっとびっくりしたのですがーーとくにLINEなどのメッセージアプリの影響が大きいそうです。使用時間に比例して偏差値が下がっていくというのですから穏やかではありません。まったく使用していない集団と1日4時間以上使用している集団とでは、何と10以上も偏差値が違う。
 学習時間をとっていても下がるのは、集中力や学習効率が著しく低下してしまうからであると考えられているようです。
 
 もっともっと恐ろしいことも書いてありました。スマホを長時間利用すると、読書をしたとき活発に働く前頭前野が安静にしているとき以上に(!)働かなくなる。すると健常児でさえ言語機能の発達が遅れる可能性がある。しかもこの現象は、テレビやゲームを長時間利用したときにも起こるそうです。
 これは私自身思いあたるふしがあります。私は将棋以外のゲームはやらないのですが、ふだんあまりヒマがないので休みの前夜、ほぼ徹夜で将棋を指していたことが何度かありました。
 
 徹夜でということは・・・だいたい5時間ぐらいぶっ通しでしょうか。ある意味、熱くなって指し続けるわけですが、しばらくたつと確かにぼんやりしてきて信じがたいようなミスをするときがあるのです。実際に人と徹夜で指しているとき(そういう時代もありました)には絶対出てこなかった類の変なミスなのですよ。
 いちばんひどいときは3手目に妙な手を指して角をただでとられて負けてしまいました。あれ? いまおれ何したんだっけ? と寝ていたわけではないのに、突然目が覚めた感じがした。ぼーっとしているのでしょうね。
 
 私の場合もうたいして先のない(?)年寄りですし、将棋を指す機会はそんなにないのでまあいいのですが、お若い方、それこそ小学生中学生高校生の方が、毎日毎日そうした状態を続けていたらそれはそれは深刻な弊害が出てくるかもしれません。
 こうしたことを経済的な事情からなかなか声高に提言できないというのが、いまの日本社会の現実なのだと思います。利用時間を1日1時間以内にとどめれば悪影響はないそうですから、ご家庭でもよく話し合われるといいですね。
 
 自由で豊かな世の中では、何をやるか以上に何をやらないかが幸せの鍵になってくるものです。
 
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2018.04.16 00:43

 人は理想の姿を自分だけで見つけられるものではないですね。何かしらモデルというか分身というか、そうした存在が必要になってくるものだと思います。ああなりたい。すごくかっこいい。憧れる。
 で、真似をしはじめたりします。中身まではいきなり真似できません。中身まで真似できるのであれば、もはや憧れの人そのものになっています。中身までは真似できないので、形ーー髪型だとかファッションだとかーーをなぞる。意味のあることで、周囲は温かく見守ってあげられるといいですね。
 
 よく大人が、アイドルに憧れている少年少女に向かって「あんなちゃらちゃらした人間に憧れるなんて」と嘆いたりしますが、まずはそういうわかりやすいところからスタートしていくものです。こんな素敵なおにいさんおねえさんになりたいというところからスタートする。
 彼らは大好きになった人間のインタビュー記事を真剣に読みますし、発言の1つ1つを吟味して一喜一憂します。その結果、べつのタレントさんに興味が移行していくこともあります。
 
 自分も10代のころはミュージシャンや映画俳優なんかに憧れた時期がありますが、必ずしもルックスのよさだけではありませんでした。ルックスだけならもっとよさそうな人間はいた。それでも他の誰かではなくその人が好きなわけで、そこには明確な理由があり、憧れの人間のエピソードなりインタビュー記事なりが心を動かす大きなものを持っていました。この人はすごい! と思わせるきっかけがあった。
 歌詞に感銘を受けるということもよくありました。洋楽しか聴いていなかったので、自分で訳して感動する。
 
 いま思うといわゆる「クサい」歌詞だったりもするのです。ただそのときはそうは思わない。繊細ですごいじゃないかと思う。
 ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」なんかもそうでしたよ。「ミュージック・ライフ」誌に訳詞が出ていましたが、自分でも訳したくなって試してみました。いまはもう忘れてしまいましたが、訳しながら涙が出そうになった。「また1人になったな、やっぱりね」と訳した記憶があります。専門家の方の訳とは違っていたのですが、私は自分の訳のほうがいいと思いました。
 
 外の世界を見ていくことです。どの世界の人間でもいいので、憧れの対象をさがしてみてください。そして、どうして憧れるのか? ということまで考える。それもまた大変いい勉強になるはずです。
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2018.04.15 01:51

 今月、池袋教室時代の生徒が2名ほぼ同じ時期に渋谷教室をたずねてきてくださった。おひとりはもう十分大人なので、近くのお店でお酒を飲みながら話をしました。昔の話がいろいろ出てきましたが、彼らの人生に自分はある意味で影響のようなものを及ぼしているので、今後もいろいろ考えなければならないと思いました。
 じつは過去も自分の影響で「哲学」に興味を持たれたという生徒が何人かいました。大学もそちらの方面に進まれた。
 
 私は哲学と文学と宗教の3つの川が合流した地点で長いことぼんやり漂っているのが自分ではないかという感想を持っています。レベルの高い低いはべつにして、感覚的にはそうしたことに等距離で興味を抱いてきました。
 ですから、哲学が好きでも正しい生き方を模索しているとは限りません。破滅的な文学に非常にひかれますから、よりよく生きることに知的な興味はあっても必ずしも私自身がよりよく生きているのかどうかはよくわかりません。
 
 またいくら破滅的な生活に憧れていても、宗教的な影響をいろいろ受けていますから、他者に迷惑をかけてまで美学を貫きたいとはいまはもう思わない。そういう意味で哲学と文学と宗教が大きく合体したというより、部分部分を牽制しあって私のようなつまらない小人物ができてしまったと表現したほうが正確かもしれません。
 そこにはまた偶然のバランスが成立しているような気もします。自分が何とか生きてこられたのは、そのあたりの微妙なパランスのおかげであるように思います。
 
 自宅で自分が影響を受けた10人(有名人)というのを列挙してみたことがあります。めちゃくちゃでしたよ。マーク・ボラン、テレンス・スタンプ、大山康晴、太宰治、キルケゴール、ヘルマン・ヘッセ、ブッダ、チャー、ヘミングウェイ、そしてリッチー・ブラックモアかな。
 こういう方からの影響がごちゃごちゃになって内部でうごめいているのだと思います。そんな自分の話を生徒たちは真剣に聞いてくれます。そこには大人同士だと成立しない類の関係ができあがっていますが、悪影響を与えないようにはしたいものだと考えます。
 
 
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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