2019.01.28 08:33

 人間というものは(と無意味に大きく出てしまいましたが)、基本的には自己の完成を目指して生きるべきでしょう。外部に何を創造しても自分が未完成のままでは寂しいですからね。力まずに自然な自己の完成だけを目指していけば、おのずから「真・善・美」のようなものが醸成されていくはずです。
 ただ、誰しも一直線に自己の完成に到達できるものではありませんから、そこに至るまでの試行錯誤・・・それがけっこう大変ではあります。
 
 勉強をするのもその試行錯誤の一過程でしょう。たくさん勉強したほうがいろいろな方向に可能性が開けていくのは確かです。勉強しているときは、こんなこと世の中を生きていくうえでたいして役にはたたないのではないかといぶかしく思っていたことが、のちのちあれこれと役立ったりするから不思議です。
 実用と人生はやはり違うもので、役にたつことばかりをして生きようという姿勢そのものが人を貧しくしてしまう可能性もあります。
 
 ときには人生をリセットさせなければならないと感じることもありますね。激しい恋愛に落ちるのは、劇的な相手に出会ったという要素以上に心のどこかで「人生をリセットさせたい、いまの状況を激変させたい」と強く念じていたケースが多いものです。自分では何をどうしたらいいのかわからない。そこで「恋」になだれこむことによって、これまでの構成を変えようとする。
 ただこの感覚には非常に危うい要素もあります。人生を激変させたいという意識下の部分が正確に見えていないからです。
 
 恋は多くの場合無意識が選んだ人生変革の「手段」であるのに、「目的」に見えてしまう。すると相手にしがみつく感覚が過剰に出てきてしまって、本来の自己の構成がめちゃくちゃになる。まさに本末転倒ですね。
 恋をしているときの高揚感や幸福感は、本来自己の中に眠っていた感情です。もともと持っていたものなのであればふだんからそうした感情で生きられるのに、他者からのプレゼントだと誤解してしまうと相変わらず自分は無力であるという誤った結論に陥ってしまいます。
 
 恋というのは、人生の素晴らしさ、自己の有能さ、生活の拡大による豊かさへの案内人です。だから美しく感じられる。相手を失うことによって、1度確認した人生の素晴らしさや自己の有能さ、生活の豊かさそのものが喪失してしまうことはじつは錯覚に過ぎません。ただそのあたりのことがわかってきたときには、恋を手段としても必要としなくなっていたりするのが皮肉ですね。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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