2018.07.30 02:13

 古典の仏教説話や禅の書籍を読んでいるといろいろ気づくことも多いのですが、いわゆる昔の偉い人と現在の偉い人の概念はずいぶん違ってきているように感じます。
 昔は「持っていないうえにその事実をまったく誇らない」人間を偉い人と規定していました。もちろん単に持っていない「だけ」ではだめなのですよ。物質的な豊かさにはあくせくせず、深い精神性を発揮している人間を聖人だとか賢者だとか呼んでいました。
 
 具体例をあげるまでもないですが、ブッダだとかキリストだとかディオゲネスだとか老子だとか・・・そうした先達に連なる系列の隠者たちですね。持っていないことをまったく誇らない。それでいて人生に対する深い洞察と慈悲の心は有している。人々は「ああいう人が偉い人だ」「ああいう心境に近づきたいものだ」と考えていたような気がします。
 そもそも聖人たちは言行を記録に残そうとさえしませんでした。弟子が書きとめた例も多かった。
 
 単純に観察していると、現在はむしろ「持っていてできるだけ効果的に誇る」人間を偉い人だと評価しているように感じます。やり手の大富豪のような方ですね。世界中の大富豪のさまざまな人生論が日本語に翻訳され大量に出版されています。そうした書籍があれだけ多いということは、当然大富豪を尊敬し近づきたいと考えていらっしゃる方が多いということでしょう。
 我はいかにして巨万の富を築いたか。誇るという表現は変ですが、積極的に喧伝されていることは確かです。
 
 一般に世間はその時代時代の価値観によって「偉い人」を指向しますから、周囲の期待や志や常識も変わってきます。より富みなさい、よりアピールしなさい、より高い位置を望みなさい・・・より多くのものを保持しているか、より特別な存在として認知されているか。常に試されています。
 現在いろいろなところで社会的に「偉い人」が不都合な事件を起こしているようですが、ある種そうした価値観の犠牲になってしまった部分もあるように感じます。
 
 特別な存在にならなければという切迫感が、もはや自分は法規を超えた存在であるべきだというところまでいびつに拡大してしまったのではないか。関係者からさまざまなチケットを別枠でとってもらうのが当然であったやり手の「偉い」青年が、やがて人生のどの状況においても自分には特別枠があってもいいと勘違いしてしまうのは自然の流れなのかもしれません。
 自分は最後の最後に天国の門に入ると言ってあとから来る人たちに道を譲りつづけた聖人の説話がありますが、現代はそんな説話とは出会う機会もないでしょうからね。
 
 事件を起こしてしまったご本人は、そんなに悪いことなのか? ぐらいに感じているのではないかと想像することがあります。自分は単に最高のやり手としてつねに賞賛され続けてきたのに、今回だけそんなに悪いのか? という困惑ですね。特殊例としてどなたか個人を糾弾するだけでは、なかなか是正できない問題だと思います。
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