2017.07.23 08:13

 Z会進学教室の夏期講習がはじまります。どこの塾でも夏休みは講習がありますね。渋谷教室はおかげさまで満員の講座も出てきました。とくに受験生ですね。教室数が限られているので、入りきらなくなるのです。その場合他教室をお勧めすることになりますが、他教室でも満員になりそうなところがあったりして、この時代にそれだけ生徒がいらしてくださるのは本当にありがたいことだと思っています。
 やはり口コミが多いですね。先輩から聞いた。先輩の保護者の方から聞いた・・・というケースがとても多い感じがします。
 
 まあ、そういうものでしょう。テキストだとか先生だとか、あれこれ宣伝できる(?)要素はあるのですが、実際に通っていた方からのお話がいちばん効果があるのは確かでしょう。中には私の名前をあげてくださったりした方もいらっしゃるみたいで、たいしたお世話もできていないのに恐縮してしまいます。
 他塾も含めて夏期講習を受けられる方にちょっと書いておきます。最近は勉強に関してはもう1つの「どうしたら勉強ができるか」のほうに主軸を移しているのですが、いいタイミングですからね。
 
 夏期講習に通って真面目にやっているのにあまり成績が上がらないとおっしゃる方がいますが、夏期講習に通っているのはあなただけではなく、真面目にやっているのもあなただけではないのですから、文字通り夏期講習に通って真面目にやった「だけ」ではまったく皆さんと同じことをしているだけで、他者より努力をしているわけではありません。
 相対的にあがっていくためには自分が他の人よりどういう努力をしているかという部分が大きいのです。
 
 講習中、宿題をサボらなかったなどというのも立派は立派ですが、やはりそういう人は大勢います。するとそこでも差がつきません。
 差がつくとすれば、皆さんがやっていること以外で何をしたかということですね。それはやはり復習につきるでしょう。昨日できなかったことが今日どれだけできるようになっているか、書けなかったものがどれだけ書けるようになっているか、知らなかったことをどれだけ暗記したか・・・そうした部分は全員が心がけているわけではないので、当然差がついてきます。
 
 ときどき課題に追われて復習しない人がいますが、それだと毎日できていなかったところを残しながら進むことになるので、効果が半減します。中には講習期間が終わったらゆっくり復習しようという人もいますが、それはよくない。日々、つまずいたところをしっかり確認しながら進めていくべきです。つまずいたところを補強していく過程がいちばん大切なのです。人生とまったく同じです。煩雑さの中であれこれ工夫できる力こそが、生きる力なのです。
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2017.07.22 07:19

b297c2ae2e6e84a0368b2d329939b2e91213e605.JPG 私は自分のことをある種のコミュニケーション障害ではないかと思っています。仕事場で、私はきわめて快活に生徒や保護者の方、あるいは先生や教務の方とコミュニケーションをとることが可能です。私が不機嫌であるとか意地悪であるとかーー相手の方が判断することで私自身が決められるお話ではありませんがーー客観的に考えてものすごく珍しいのではないかと思います。
 基本的に教室内において私はコミュニケーション障害を発揮して(?)はいないということですね。
 
 では、どういうときにそういうことを意識するのか。
 犬の散歩に行きますね。犬がかわいいので声をかけられる。私はそういうのが苦痛なのです。「かわいいワンちゃんですねー」とか「なんていうお名前なんですか」とか。声をかけられると「頼むから おれに話しかけないでくれ!」と叫びたくなるのです。
 あ、もちろん叫びませんよ。へらへらにこにこしているだけですが、とにかく苦痛なのです。家内と一緒のときはそっぽを向いていればいいのですが、先日ついに単独散歩デビューした日は大変でした。
 
 犬はやたらと愛想がいいので、人のいるほうほかの犬がいるほうに行こうとする。私は話しかけられるのがとにかく苦痛なので、人のいないほういないほうに逃げていく。犬の進みたい方向と私の進みたい方向がはじめから最後まで正反対なので、散歩がはかどらないことこのうえない。
 人間というのはーーあたりまえですがーー動きます。すると人がいないと思ってうろうろしているところに誰かが近づいてくることがありますね。私はそれ、逃げろ! と犬を引っぱってさらに人のいないところに逃げていく。
 
 こりゃだめだわーと思いました。
 考えてみれば、私は飲み屋さんなんかでも声をかけられるのがあまり好きではありません。話すことはできるもののそういうところでわざわざ人間関係を構築することが美的な感じに思えないのです。
 考えてみれば少年時代からこうでした。友だち・・・的な人間はいましたが、うまく距離がとれずに苦労しました。意味なく深入りしすぎてすぐにいやになったりしました。そういうことの繰り返しでした。
 
 ただコミュニケーション障害を自覚しているからこそ公の場では上手におつきあいできる要素は確実にあります。私のようになかなかうまくいかなくて苦労されている10代の方もいらっしゃると思います。その苦労がお仕事をされてから活きてきたりするものなので、むだではない。大丈夫です。犬の散歩のときには苦労しますが。「面会謝絶」という札を首からかけて散歩しようかな。
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2017.07.21 09:18

 極めて落ち着いた気持ちで静観しているのですが、基本的に学力の本質はそうは変わらないものです。知識というのはやはりそれ相応に重視されるべきもので、たとえば「情けは人のためならず」の正しい意味であるとか、「そんなご飯は食べれないよ」のどこが間違えているのかとか、「それは杞憂だった」の意味が正確にわかっているかとか、正しい答を出せる人のほうがぜんぶ間違えてしまう人より確実に勉強家であり、入学試験などで高く評価されるはずです。
 
 ですから、マークシート方式がどうのこうので、知識に関してたいして覚えなくてもよくなるのではないかという期待はまったくできないと思います。いままでと同じ、あるいはそれ以上の知識の定着は必要であり、勉強量を減らしても心配ないという事態にはならないでしょう。
 いままでの試験はある種の骨格として残り、そのうえで「臨機応変に対処できる力を確認していく」形に移行するでしょう。
 
 この「臨機応変に対処する力」というのは、確かに教科書の勉強だけではどうしようもない部分があります。それはある種「人間力」であり、あなた自身の生き方と密接に関係してきます。
 それこそーー以前も書きましたがーー特急列車のシートをどれぐらい倒していいものか、あなたはその理由とともに即座にまとめることができますか。即座に、です。そうしたことは現実場面では瞬間的に考えるべきことです。列車に乗って背後にどなたかがいて、いままさに倒そうとしているときに考えるわけですから。
 
 そうした物事を少しだけ時間はあげるかわりに理路整然とした文章で数百字で書いてくださいというのが「人間力」のテストですね。
 次々と使えそうな言葉が浮かびますか? 遠慮、礼儀作法、自由、権利、マナー、気分を害する、思いやり、我慢、人と人との関係、自分が座席を倒す場合と倒される場合、配慮、ルール、日本の風習・・・そうした用語がいくつもいくつもぱーっと頭をかけめぐるぐらいでないと的確に対応できないでしょう。
 
 そこは机上の勉強だけでなく、日常のお手伝い(それこそたまには料理を任されて途方にくれながら仕上げたり、洋服を1人で買いに行って店員さんとあれこれ相談できるぐらいの力が必要です)が威力を発揮するでしょうし、大人とのコミュニケーション能力は絶対に必要で、そのためにはもちろん「大人が何を考えているのか」ということがある程度わかっていないといけません。
 大人との関係が大切で、命令ー服従、指示ー反抗みたいなことだけではまったく能力は開発されません。そこは大人側も育てていく過程で大切に考えないといけないでしょう。
 
 正しい「人間力」は正しい「家庭力」からついていく側面もありそうです。
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2017.07.20 00:21

 私たちには公的な顔と私的な顔とがあり、どなたもそれを使い分けて生活しています。それは当然でしょう。公的な場ではしっかりした姿を見せようとします。大勢の方に見られていますからそうせざるをえない。いい加減なこと、悪いことをしたらすぐに指摘されます。そうならないように、できるかぎりきちんと公平に正直にしようとなさるものでしょう。
 ところが私的な場面ではどなたも見ていないときがあり、そこに油断が生じます。
 
 怠惰さみたいなものが頭をもたげてくることがありますし、場合によっては不公平でも自身が得するならば構わないじゃないかという強欲さがわきおこってきます。そのときどうするか。
 私的な場面ではどなたも見ていないから・・・と考えがちですが、じつは見ている人間が確実に1人だけいます。ご自身ですね。ご自身だけは自分の発言、行為を確認し続けています。
 
 立場の弱い人間を罵倒する。あるいは自分の立身出世とは関係のない出来事や人物を著しく軽んじる。あるいは極端に自分の配分を多くしようとどこかにしわ寄せがくるほど画策する。全体のために本当にそれでいいのかということを考えられるようになるのが人間教育でしょう。本質的な意味での品格を身につけないといけないですね。
 それを授業という形態で一律に指導するのは難しいかもしれませんが、ふだんの生活の場でそうしたことを考える機会が多いのはとてもよいことだと思います。
 
 仮にご両親が私的な場で「あんな落ちこぼれはろくな大人になるわけないさ」とか「貧乏人なんか相手にしても価値がないよ」とか不用意な人生観を冗談でも口にされると、その見方は当然お子さんにうつっていくでしょう。そして公的な場ではどんなきれいごとを並べようとも、実際は思いやりのない弱者に冷たい利己的な大人に育つかもしれません。
 世の中全体をよりよくする力を身につけることが教育の究極の目的であって、すべての作戦はそこにたどり着くための方便でしかありません。
 
 生きることはあなた自身を表現することであり、どの部分も「あなた」という一大芸術作品のハイライトです。公的な部分でも私的な部分でも同じ「生」ですから、とくに他者に対しては礼節を持って接するべきだと思います。試されているのはそうした部分なのですよ。
 私的な場だからこそ「本当にそれでいいのか?」ということです。
 
 
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2017.07.17 00:36

 今週から休講期間に入るので、1泊だけ旅に出ようと考えています。何もない地方都市に行きます。
 旅をすること自体が目的なので、とくに何をするという予定は作りません。何を食べるとか何を見るとか。
 たぶんうろうろするだけだと思います。たぶん飲みに行くとも思います。注文などの必要最低限の会話しかしないと思います。気楽だなあ。
 
 普通の日ですから世の中も普通ですね。
 5月の連休中なんかだと街の雰囲気そのものがちょっと違ってしまうので、つまらないと言えばつまらないのです。ご家族で経営されているお店はやはり連休をとられていますからね。
 ふだんの生活ぶりを見たいので、デパートに入ってみるかな。地方都市のデパートをうろうろするといろいろなことに気づきます。何年か前、広いフロアーに見渡す限りお客さんは私1人ということがありましたよ。
 
 10代の終わりごろ、埼玉県のどこかの都市(あまりにも昔のことなので忘れてしまいましたが、浦和ではなかったのは確かです)で偶然デパートを見つけました。聞いたことがない名前でしたよ。スーパーではなく、あくまでもデパート。そこの屋上にのぼりました。何かあるかなと期待した。
 ところが何もない。平日の昼間なのでどなたもいない。遊具はありましたが、もちろん大人が乗るようなものではありません。
 
 しばらくそこにいました。夏でした。ベンチに座って自動販売機で買ったカルピスの炭酸わりを飲みました。当時は「カルピコ」という商品名ではなかったな。どなたもいらっしゃらないのでしんとしています。その寂しさは、しかしある意味「風流」でもあった。藤原定家の名歌に「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮れ」のいうのがありますが、何もないことが何よりの贈り物という不思議な感覚がある。
 後日、私はデートのときに女の子をその屋上に連れて行ったのですが、それは失敗でした。
 
 あくまでも、花も紅葉もなかりけり・・・だからよかったのですね。そういう旅をしようと思います。
 犬と遊べないのが、ちょっと寂しいかな。
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2017.07.16 00:20

 1つの目安としてだいたい2学年上の教科書がすらすら読めるかどうかがいわゆる国語がよくできる・そうでもないの分岐点になってきます。小学校6年生であれば中学2年の教科書、中学3年生であれば高校2年の教科書ですね。
 すらすら読むためには内容が理解できないといけない。「うへー、何これ?」状態ではすらすらというわけにはいかないでしょう。自分ができるようになれそうか、そのあたりで確認してみるといいと思います。
 
 2学年上の教科書というのはたいした背伸びではありません。たとえば高校生のある教科書には芥川龍之介の「羅生門」が出てきますが、「羅生門」そのものをすでに読んでしまったという中学生はたくさんいます。小学生のときに読んだという子も相当数いるでしょう。私自身も小学生のとき読んだ記憶がありますが、高校生になって改めて何時間も解説されるわけですからそれはそれはよくわかる。
 語彙も表現も思想的な展開も、解析的に授業を受ければーーなるほどあのとき感じたもやもやはこういう解釈なのかとーー本当に深く理解できます。
 
 ところが中には芥川龍之介の名前すら知らない高校生がいます。私はそういう方を否定しているわけではありませんよ。いろいろな生き方があり、芥川龍之介を一生知らないままの人生だって全然悪いとは思いません。私だってありとあらゆるクラシック音楽を知らずにこの歳を迎えています。
 ただ少なくとも国語の授業で「羅生門」を学習しているときだけは、芥川を知らない高校生が著しく不利なのは事実でしょう。そもそもあらすじさえわからない。あれはこういうことだったのかという再発見もない。
 
 2学年上の教科書をすらすら読める生徒はもちろんむりに先取り学習しているわけではありません。先取りというのは「気づいたらだいぶ先のものに興味を持っていた」という形をとらない限り、なかなか効果が出てきません。むりに先取り学習をさせられた小中学生がかえって勉強嫌いになり、大きな壁にぶつかったりしている状況を何度も目撃してきました。文化的成熟が自然に同学年より2年程度進んでいるというのが理想です。中学時代に自然に芥川龍之介に手が出るぐらいの生活が、本当は好ましいのです。
 
 ただ現状、そうでなくても何も心配はないのでご安心ください。方向性としてというお話です。私はこのブログを選民思想みたいな気持ちでは書いていません。ここからのスタートですよ。私を含めて「全員」の方がここからです。よりよく生きるということですね。
 
 
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2017.07.15 00:10

 先日、チェット・ベイカーを主人公とした「ブルーに生まれついて」という映画のDVDを見ました。これは上映されているときからどうしても見たかったのですが、時間的に都合がつかず映画館では見ることができませんでした。
 最近はDVDを借りてきても最後まで見ないうちに閉じてしまったり、見ているうちに寝てしまったり(真夜中アルコール類を摂取しながら見ているせいだと思います)というパターンが多いのですが、さすがに出だしから終わりまで眠くなったりせず集中して鑑賞できました。
 
 チェット・ベイカーの映画と言えば、1989年に「レッツ・ゲット・ロスト」というご本人が出演している映画を見ています。とてもよくできた白黒の作品で、全編退廃的な美学に満ち満ちていました。その映画の撮影直後にチェット・ベイカー自身は高いところから落ちる形で亡くなっています。事故とも自殺とも言われていますが、真相はわかりません。
 今回の映画も彼のある意味メチャクチャな生き方について忠実に描かれていました。彼はジャンキー(薬物中毒者)でしたからね。途中、やけくそになった彼が「泳いでくる」と言って、スーツ姿で海に入っていくシーンがありました。
 
 15歳のとき自分がはじめて書いた小説を思い出しましたよ。散逸してしまったので細かい筋は覚えていないのですが、アメリカ人の主人公の男が黒いスーツを着てーーさらに帽子を被らせていたように記憶していますーー真昼の海に入っていく。そして「昔はよかった!」というセリフをさかんに繰り返す。その後、彼の姿を見たものはいない・・・と終わらせていたと思います。
 私自身の当時の感情を表現したのですが、海にスーツ姿で入っていくという発想が浮かんだときは「やった!」と思ったものです。
 
 先日、ある文豪の昔の小説を読んでいてーーこれは偶発的に読みましたーーちょっとした衝撃を受けたのですが、以前のようには感動しなくなっていました。昔はその病的な世界観にやたらと興奮した覚えがあるのですが、それがほとんどない。安易な話の展開に子どもっぽささえ感じたりしました。
 すれたものだという驚きもあり、これがまた成熟ということなのだろうという感慨もあります。鈍感になったという悲しみはありません。歳をとって正しい方向に来たと感じます。
 
 チェット・ベイカーの生き方に関しても1989年当時はやたらと感動したのですが、いまはかなり冷静にとらえられるようになっています。
 なにもスーツ姿で海に飛びこまなくても、人間は普通に生きているだけで十分に美しい。あるいは普通に生きているだけで十分に感動に値する存在である・・・そうしたことがわかるようになるまでやはりある程度の年月が必要みたいですね。あくまでも劣等生だった私の場合ですが。
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2017.07.14 00:17

 人間の頭のよさ(?)を研究されている方がいろいろいらっしゃいますね。私はその種の書籍を興味本位であれこれ読んできましたが、何人かの学者さんがーー書籍は片っ端から処分してしまうので、具体的には忘れてしまいましたーー各人の中にだけ知恵や知識が蓄えられていくのではなく、巨大な人類の英知がつまった海みたいなものがあり、頭のいい人はそことつながる術を漠然と会得していて情報を引っぱってくる技術にすぐれているのだという意味のことをおっしゃっていました。
 
 この考え方は非常に興味深いと思います。
 ときどき人と話していて、あ、この一連の私の考えは現在の自分のものではないなと感じるときがあります。そうした経験はだいたい一生懸命にどなたかを励ましたりしているときにふと訪れます。間違いなく価値のありそうな言葉が自身の口から発せられてはいるものの、自分程度の人間が必死に考えたところで本当はこんなお話はできないはず・・・という妙な感覚が残るのです。
 
 手紙を書いていてもそういうことがあります。あ、このあたりからは目に見えない何かの力が働いているなと。普段の自分ではとても思いつけないようなことを書いていたりするのですが、ぜんぶ書き終わって改めて読み直してみると、この部分を書いたときは精神的に高揚していただけで言葉はどこかから降ってきたとしか思えないということがあります。
 このブログを書いていてもたまにあることで、私はどこかの何かに助けられているような気がします。
 
 絵の上手な方や音楽が得意な方、あるいは優雅に踊ったりされる方を見ていても確かに個々の努力はすごいのでしょうが、努力を内側にためこんだだけではあそこまで見事に結実しないのではないかと感じるときがあります。
 中高生のころ本当に見事な絵を描く友人がいて、たとえば人物の顔を描くときに頭から描かずにふと頬のあたりから描いたりするので、どうしてそんな発想が浮かぶのかと質問したことがありました。すると彼は自然にそうなっちゃうんだと答えました。
 
 あれもいま考えるとそういう「降ってきた」類のものなのかもしれません。大きな何かを成し遂げるためにはやはり個人の力だけでは難しいでしょう。
 力の源泉とつながれた瞬間というのはじつはどなたにもあるはずで物事がすいすい運んでいるようなときに、あまりにもご自身の力のみを過信しすぎるのはかえってよくないような気がします。源泉とつながれるのは自分の殻を固く保ちすぎていないからでしょう。だからこそ全体の知恵が流れこんでくる。生きるうえでの謙虚さみたいなものは本当に大切だと思います。
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2017.07.12 01:15

 今週携帯電話の調子がおかしくなり、購入したお店に相談に行きました。まあ、私は基本的に携帯電話を使いたくない人間なのでいらないと言えばいらないのですが、仕事の関係でなしにはできないのです。それからーーこれは大きな問題だと思いますーー最近は電話ボックスが次から次へと撤去されてしまって、外で電話をかけたくてもなかなかかけられないという事情があります。
 駅でも相当探さないと見つかりません。もともとあった場所から撤去されていくのです。
 
 さらに公衆電話が極端に汚いことがよくあります。昔のように掃除の方が頻繁にいらっしゃらないのでしょう。ボックスの中に同じゴミが何週間も放置されている。困ったものですよ。
 これはもう6年ぐらい使っていますねと言われました。さらにずいぶん毎月の使用料が高いのでプランを見直したほうがいいとも言われました。
 そして新しい機種を勧められました。そのときスマホのほうがお得になりますよと言われました。
 
 私はお断りしましたよ。相手は非常に感じのいいお嬢さんで、あきらかに値段的に損なのにどうして・・・という顔をされているので、まあ真面目に説明するのが礼儀だろうという気がして、スマホというものを使おうとする自分を好きになれないのですという意味のことを話しました。
 そういうことってありますね。スマホだけではないですよ。私自身のことで言えば、たとえばサーフィンをしたり社交ダンスを踊ったりカラオケ教室に通ったりする自分は何となく許せないという気持ちがあります。
 
 誤解のないように補足しておきますが、サーフィン自体には憧れているのです。アメリカのテレビドラマ(「ギジェットは15歳」)を見たころからそうです。ジャン&ディーンやビーチ・ボーイズなどのいわゆるサーフ・ロックも一時期よく聴きました。ただ私自身がサーフィンをやろうというのは何か間違っていると思うわけです。
 社交ダンスやカラオケ教室にしても上手な方には尊敬の念を持っていますが、自分がやろうとするのはよくないだろうという気持ちになる。ほかにもディズニーランドに行くとか、あえて禁酒するとか、絵文字を連発するとか、半袖短パンスタイルで外出するとか・・・いろいろありますね。
 
 そういう意味で「便利だから」「お得だから」程度の理由でスマホになびいてしまったらいかんだろうと今回も普通の携帯電話にしました。まだ慣れていないのでマナーモードがすぐに解除になってしまったりして困りますよ。
 息子に新品だぞと見せたところ、まだそんなの使っているのか! と笑われましたよ。「いい加減スマホにすればいいのに」
 そういうわけにはいかないんだなあ。まあ、この道を行きますよ。こだわりは大切だと思います。
 
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2017.07.11 00:05

 日曜日の朝刊に「フラクタクル理論」のことが書かれていました。日曜日は理科的な記事も多くてけっこう面白いですよ。本当はコピーして生徒たちに配りたかったのですが、そういうことをしてはいけないと禁じられています。昔はそのへんがおおらかでしたから、よく学校や塾で新聞に載っていたためになる記事をコピーしたものを配っていた。保護者の方は、思い出がおありかもしれないですね。
 
 フラクタクル理論については私自身よくわかっていません。いいのですよ。詳しくわからなくていい。面白いところだけちょこちょことつまみ食いみたいにして楽しめばいいのです。読書だとか好奇心だとか・・・そういうものです。厳密にわからなければいけないと縛りすぎてしまうと、そもそも興味を持つこと自体がおっくうになってしまいます。
 本だってはらはらするところを数ページだけ読んだだけというのも、ある種の読書です。そんな経験を積み重ねていくうちに他の部分ものぞいてみたくなるものなのですよ。
 
 部分と全体は似ていると出ていました。部分の中に全体の情報が含まれている。カリフラワーが例にあげられていました。カリフラワーをちぎってよく見てみるとカリフラワーそのものに似ています。面白い。
 雲なんかもそうです。人間の血液はどうですかね。形は人間には似ていませんが、その人の情報(健康であるかどうか)は僅かな血液から読みとることができます。そのために大人の健康診断には血液検査というものがあります。
 
 これから書くお話はじつは以前もどこかで書いています。ただそのときはフラクタル理論とは関係なく書いた。もう1度書いてみます。
 この考え方で言えば、今日のあなたはひょっとすると一生のあなたに似ているかもしれません。今日はどう過ごされていましたか? あるいは朝この記事を読んでくださっている方は昨日でもけっこうです。今日、あるいは昨日のような人生でよいですか? それとも改善したい何かがありますか?
 
 何もしていなかった? そういう一生になるかもしれませんよ。逆に一日中忙しすぎて何もできなかったという方もいらっしゃるでしょう。追い立てられる人生でよいですか。今日を訂正していくことで一生が変わるかもしれません。いまのあなたの生活が大切であるということです。少なくともいまの気分がすべてだと覚悟を持ってくださったらいいと思います。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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