2018.06.22 09:44

 ふだん私は生徒にオプションの講座をとれとうるさく勧めてはいません。もちろんとるなとも言っていない。よく考えて絶対に必要なものだけはとりなさいということです。夏期講習期間はふだんの授業がなくなるので、夏期講習本体はとるように言っています。その期間、ずーっと休んでいるのはちょっと心配ですよ。
 もっとも1年生や2年生ですと、海外に行かれるとか部活が忙しいとかという方もいらっしゃって結果的にとれないケースも出てきます。
 
 夏期講習に付随する講座として単科ゼミというのがあります。こちらは自由参加なので、絶対に選択しなさいとまでは言っていません。夏休みにできるようになりたいのであれば当然勉強はしなければいけませんが、単科ゼミをとらないとだめだと短絡的にあおることはしていない。
 その期間(だいたい3日間です)、自宅でしっかり夏期講習の予習をしてくださってもいいですし、学校の夏休みの宿題をやってくださってもいい。自習室で何か勉強されてもいいと思います。
 
 保護者会でオプションの講座について紹介はしますが、とらないと大変なことになりますよ的な説明はしていません。むしろ変に深刻になったりあおる雰囲気になったりしないように、気をつけています。もう間に合わないんじゃないか、いったいどうしたらいいのだろう、あれもこれもぜんぶとらないとだめなんじゃないか・・・とご本人が焦るとろくなことになりません。
 そうではない。人生はご自身が気づいたところからで十分間に合います。間に合うというのは「幸福になれる」という意味です。
 
 仮にいままで全然勉強をしてこなかったとしますね。いま気づいた。では、ここからむりのないよい勉強をスタートさせてください。勉強以外でもそうです。運動してこなかった。倹約していなかった。愛情深く接してこなかった。何でも同じ。むりのない範囲でできることをいまから心がける。実践する。
 原理的に考えて、それ以上の方法は1つもないからです。わかりますか。気づいたところからベストを尽くす以上のやり方は「ない」ということです。そしてとにかく次のステップにのぼる。そこでまたベストを尽くす。
 
 気づいた瞬間からしっかり生きるということがいちばんの秘訣です。仮にあなたご自身のその気づきの中にオプションの講座が入ってくるのであれば、それは喜んで選択し、全力でやりきってほしいと思います。
 
 
 
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2018.06.20 09:14

 私はそれこそ「どうしたら勉強ができるようになるか?」などというコラムを書かせていただいていますが、とくに勉強しようと思っていない方にまでそうしたものを押しつける気持ちはまったくありません。どう生きるかということは個々の人間が考えるべき問題であって、志望校にしても偏差値が高ければどこでもいいという発想はちょっと寂しい気持ちがします。
 やみくもに志望校を難関校に決める以前に、どう生きたいかを考えることのほうが先でしょう。
 
 たとえば私自身は生まれ変わったら、他にやりたいことがあるのではじめからあまり勉強はしないと思います。仮にいまの状態でーーどうしたら勉強ができるようになるかを知っている状態でーー生まれ変わったとしてもさほど勉強はしません。
 親の経済状況が許せば、公立校ではなく私立校を、男子校ではなく共学校を選択するでしょう。さらに勉強中心にはしたくないので偏差値的にはあまり難しいところを目ざさないとも思います。中堅校で、好きな教科だけ少し勉強するという感じでしょうか。
 
 ときどき生徒と面接していて、志望校の志望理由がはっきりしないことがあります。けっこうありますよ。「大学への進学率がいいから」などという話が出てくるのですが、同じぐらい進学率がいい高校はいくらでもあります。「共学校だから」「中高一貫校ではないから」「楽しそうだから」・・・彼らを困らせるために話しているわけではないので追いつめることはしませんが、本当の志望理由については彼ら自身のためにもっと深く考えてもらいたいとも思います。
 
 また、ときにはこれは単純な見栄なのではないかと感じるときもあります。それぐらいの高校に受からないと恥ずかしいという話題になったりする。誰に対して? と質問すると、親しい友だちであったりご兄弟であったり。あるいはそれぐらいの高校に入らないとご両親に怒られるからという。極端なご家庭だとーー本気でおっしゃっているわけではないと思いますーーその高校に入れないのなら進学させないと言われてしまったので、じつはたいして知らないのだけれども志望校にしていますという例さえあります。
 
 どういう高校生活を送りたいかということは、私はどういう人間として生きていきたいかということと当然かぶってきます。
 どういう人間になりたいか。どういうことが好きなのか。どういう仕事に興味があるか。どういう人間関係を築きたいか。どういうご性格だと感じているか。どういう部分は直したいという気持ちがあるか。どれぐらいの経済状態を望むのか。普通の生活が希望なのか変わった一生を楽しみたいのか。夢は何か。持っていないのなら、どうして夢を持たずに生きることを選択するのか。
 
 そうしたことをまず考えてほしいという気持ちがある。きちんと自分自身を見つめる。その先に、だから高校時代はこうしたい、この高校がよさそうだということが見えてきます。場合によっては「こうしたい」は変化してくる可能性もありますから、志望校も当然変化する可能性がありますね。
 自分自身を見つめるのが面倒臭いという精神状態であれば、じつは「高い志望校」「将来はエリートに」どころではないですよ。ご自身のことです。毎日客観的に見つめてみてください。
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2018.06.18 09:59

 勉強については右側の「どうしたら勉強ができるようになるか?」というコーナーにまとめてしまったので、単純な繰り返しになる記事は書かなくてもいいのかなと思っています。それでもたまには勉強の話も・・・
 勉強するというのは、根本的にどういうことなのか。それはやはり作業です。身体を使って何かを実際に「する」ことですね。ですから作業した事実が残っていなければ、残念ながら勉強したことにはなりません。
 
 作業の伴わない勉強時間というのは、勉強しようとしていた勉強するつもりだったというだけになってしまう。運動なんかに置き換えて考えてみるとわかりやすいかもしれないですね。実際に走ったのか走らなかったのか。たくさん走ったのか少しだけ走ったのか。素振りをしたのかしようと思いながら時間ばかりが過ぎていったのか。人より多く動いたのか人より少なめだったのか。全力で投げたのか他のことに気をとられながら投げたのか。汗はたくさんかいたのかかかなかったのか。
 
 相当の違いが出てきます。運動競技が得意になるためには、例外なくたくさん運動する(練習する)必要がありますね。
 勉強はどうでしょうか。ぼーっと机の前に座ってテキストを眺めていたなどというのは、視覚だけは使っていてもたいした作業ではない。運動で言えば「もっとも汗をかかない」練習にすぎません。
 そこはやはり作業が必要で、声を出して読み本文を書き写し辞書をひいてあれこれ調べたうえで手を動かして練習したり覚えたりする必要があります。
 
 すると紙はたくさん使うでしょう。読んでいるときには邪魔になるので他の音源を切る必要(ながら勉強はできないということです)も出てくるでしょう。消しゴムのカスもたくさん出るでしょうし、アンダーラインを何箇所も引くことになるでしょう。色も使うと思います。
 そうしたことを日々の勉強の中で意識していますか? やっているのになかなか成績が上がらないという人は、間違いなくそうした部分が欠如しているはずです。ただ座っているだけでは真面目は真面目でも、効果が乏しいということです。
 
 自習室を活用するとか、身振り手振りをつけて英文を読むなどというのも身体を使っていますからいい勉強だと思います。将来、皆さんの前でスピーチする練習のために・・・といって、教科書の英文を立って身振りをつけて音読している生徒がいました。もちろん将来発表する内容は、中学生の教科書レベルよりはるかに難しいでしょう。それでもいまからイメージしておこうとされる姿勢は、大変すばらしいと思いました。
 
 
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2018.06.17 07:58

 昨日、朝の犬の様子がおかしかった。午前9時台まではそうでもありませんでした。いつもの蒲団で寝ていたので、1度か2度撫でに行きました。そのときクッキーもやった。先日、旅行先から買ってきた高価な(?)クッキーです。松阪牛がどうのこうのと書いてありましたよ。
 ところが10時に入ってからおかしくなった。椅子の下に避難している。どうしたんだ? と声をかけても出てきません。
 
 彼女が椅子の下にもぐるのは強く叱られたときか何かしら振動(地震のような)が起きたときだけです。以前、会社に遅刻した息子が隣室で1人で怒鳴っていたときも椅子の下に入っていきました。
 ただ今回は自宅には私しかいません。自室で音楽(フリーのデビュー・アルバムでした。ふだんの私はそういうのを聴いています)は聴いていましたが、小さな音ですしあたりまえですが、私は怒鳴ったりしていません。
 
 最後の最後まで出てこないので、ひょっとして陰で粗相をしてしまったのかと思ってじっくり見てみたのですが、そんなこともない。仕事に出なければならないので、念のために家内に置手紙を書きました。犬が椅子の下から出てこないので地震でも起きるかもしれない・・・と犬のイラスト入りで書いておいた。
 私がバスに乗ったのは10時50分でした。始発なのでほぼ定刻どおりです。
 
 会社についてからーー念のためにーーどこかで地震が起きていないかすぐに調べてみた。すると11時台にたて続けに千葉県で大きな地震が起きていました。最大震度4ですから小さくはないと思います。私は電車に乗っていたので気づきませんでしたが、東京も揺れたかもしれません。
 東日本大震災のときにもペットの様子が変だったという報告が映像つきでずいぶん上がっていますが、宏観現象と呼ぶのでしょうか、何かしらそうしたものがあるような気はします。
 
 なまずが暴れるという説は有名ですね。私が子どものころからそんな話はありましたよ。千葉県ではスロー地震というーー要するにゆっくりした振動らしいーー変な現象が続いているという記事も最近目にしています。
 そう言えば私が子どものころは、地震が起きたらすぐに竹やぶに逃げようと言われていました。地盤がしっかりしているということなのでしょう。残念ながら、いまは竹やぶ自体がないですね。いずれにせよ、防災意識は大切ですね。
 
 
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2018.06.16 00:12

 1993年というのはかなり昔になりますね。息子がまだ生まれていない。4半世紀前ということになります。当時、ふと思いついて書きはじめた物語というか小説というかがあります。翌年に一応完成したのですが、どうも物足りない。それから何回も何回も書き直しているうちにーー当然のことながらーー話がどんどん変わっていきました。
 私小説的なものでもないのですが、作者の私がどんどん歳をとってくる。すると視点が変化しますね。
 
 小学生のときのことを主人公が思い返す。25年前私はまだ30代でしたから30代の人間が振り返っている。それがどんどん歳をとってきて現在私は62歳です。すると同じように振り返っても、全然違ったものが見えてくる。たとえば30代のときに考えたビートルズと、いま考えるビートルズはまったく違う印象です。
 そうなってくると、いつまでたっても完成しない。完成したと思っても少したつとまた変えたくなる。
 
 じつはこの小説は10年ぐらい昔ある地方文学賞に応募したところ、最終選考まで残りました。残ったものの受賞というわけにはいかなかった。当時は残念だったのですが、いまになってみると当時の形では未完成なので世の中に出なくてよかったと思っています。
 私は現在とくに生活に不満があるわけではなく、別の世界に移行したいわけでもありません。このままでいいのです。進歩がなくてちょっと間抜けですが、私は私の等身大の日々を積み重ねていくだけで十分だという気持ちを持っています。
 
 ですから若いころのように、何かすごいことを書いて周囲をあっと驚かせてやろうなどという欲求はありません。そうしたことを考えていた日々は、純粋になつかしい。あれはあれで楽しかった。ただ、ここまで書き続けてきたものはいつか何らかの形で完成させたいという気持ちもないではない。
 25年間あれこれと書き続けているというのは、よほど執着もあるのでしょう。もともとは古いワープロで書いていました。次のワープロになってからも書いていた。そして現在はパソコンで書いています。
 
 主人公は小学校で同級生だったある女の子に恋をします。同じように25年たったいまの主人公も恋をする。ただそのニュアンスはまったく変わってしまいました。昔の視点は浅かったように思える。いまのほうが「滋味」みたいなものがある。ただこれが私が80歳(生きていないでしょうが)になったら、もっと「滋味」が出てくるのではないかという不安(?)がある。するとやはり永遠に完成しない可能性があります。変なことに夢中になってしまって、困りますねー。
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2018.06.15 07:54

 今週、予定通り旅行してきました。1泊だけですね。行きの新幹線でこういうことがありました。とてもきれいな女の方がいらっしゃった。西洋の方でした。有名なーーもう亡くなってしまいましたがーーフランスの女優さんにすごく似ている。ご主人(も日本人ではありませんがアジア系の方みたいでした)とお嬢さんとホームに並んでいらっしゃった。グリーン車なので並ばなくてもいいのですが、車内清掃がそろそろ終わりそうなので何となく並んでいたのでしょう。お嬢さんは中学生ぐらいだと思います。お母さん似でかわいらしい。
 
 女の人の荷物にビールのロング缶が2つ入っているところが見えました。こんなにきれいな女性でも、やはり新幹線では昼間からビールを飲むものだなと変なことに感心した。私は350ミリの缶を買ってありました。
 扉が開いて席についた。偶然ですが、彼らは私のすぐ後ろでした。私はA席(海が見える側)で、彼らはBCDでした。富士山側ですね。混んでいたわけでもないのですが、通路をはさんで私と並ぶ形で老夫婦が座っていた。
 
 70代だと思います。彼らは車内販売のお弁当を食べていました。私も軽くサンドイッチを食べましたが、いろいろと計画をたてていて(夜はどこで何を食べようとか)軽めにすませておいた。
 私は音楽雑誌を読んでいて、きれいな女の人のことはすぐに忘れてしまいました。それはそうですね。いくらきれいな人を見たにしても新幹線の中でずーっと意識して・・・なんていったら病気ですよ。記事にリッチー・ブラックモアの話が出てきて、夢中になって読んでいた。
 
 するとパタンという音がして隣の老夫婦の席から何かが落ちました。空のお弁当箱です。市販の紙の弁当箱ですね。食事のあとだったので、食べ物が散乱するような状況にはなりませんでした。男の方が「おっ!」とおっしゃった。私もそちらに目をやりましたが、まあ考えたことは(食べ終わったあとでよかったな)ぐらいでしょうか。
 ここからです。背後の席からあのきれいな女の人がさっと立ち上がってきて、お弁当箱をもとの形(本体とふたがばらばらに落ちていた)に戻し笑顔で老夫婦に渡しました。
 
 あ、すみませんという声が聞こえた。
 私は感心しましたよ。なかなかできそうでできないことです。親切とは人間とはどうあるべきか、などと考えていたら動けないですよ。彼女は反射的に動いただけです。つまり反射的にそういうことができる人間だということです。
 彼女の輝くような美しさは、何かしらこうした要素に支えられているのだろうとも考えました。美しさの創造というよりは持続に、何かしら大きな影響を与えているように感じたのです。
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2018.06.14 09:11

 塾でも学校でもそうですが、ときどき来られなくなってしまう方がいます。あちらから見ると行かれなくなってしまったということですね。そういうときの正しい考え方は、また行けるようになったら行こう・・・ですよ。それで十分です。難しいことを考える必要はありません。
 むりをしてうんうんうなりながら、とにかく形だけの出席を目ざすというような変な圧力をご自身にかけないようにしてください。
 
 時期というものがある。いまは通いたくないということであれば、まったくやめてしまうのも1つの方法ですし、時期を見てまた通うのも1つの方法です。
 つい最近も、事情があってある高校をやめられた生徒が遊びにいらしてくださった。遊びにというより、報告にという感じでしょうか。前向きに明るくなっていたのでほっとしました。いろいろ抱えている時期はもっともっと混乱していた。いまは次のステップに向けて、それなりに手は打てています。うまくいくでしょう。選択肢は人間の数だけあるので、落ち着いてご自身の方法を見つけていくことです。
 
 部活をやめる、学校をやめる、仕事をやめる、パートナーと別れる。いろいろなことが起こりえます。私は積極的にそうしたことを勧めているわけではありませんが、つらくてつらくて仕方がない。何もできなくて涙ばかりが出てきてしまうというのであれば、あまりにも重荷であるわけですから、とりあえず荷物をおろしたほうがいいのではないかと感じるわけです。
 とにかく生きやすい方向に調整して、うまくいかなくなったらまた微調整をかけていけばいいだけですね。
 
 以前も何度か書きましたが、雨の日には雨の日だけが持つ独特の美しさがあります。晴れが100点で雨が0点ではない。ですから、雨の日は天候を呪ってばかりいないで、むしろ積極的に雨の中に飛びこんで(雨を浴びろという意味ではありません)いき、とことん雨の美しさを味わうべきなのです。
 雨の部分を「何かをやめること」とか「入院していること」とか「単身で暮らしていること」に置き換えてみてください。そこにはまたかけがえのない美しさや静けさがあるものです。
 
 そもそも「雨の日はじめじめしていていやだ」という概念は個人が考えたものというより、どこかですりこまれたものである可能性が大きいですよ。起きている状況を好奇心を持って前向きにとらえてくださったらいいと思います。
 
 
 
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2018.06.11 01:38

 幼い子がご両親に虐待されて亡くなられるといういたましい事件がまた起きてしまいました。その子が書いた「ごめんなさい」「ゆるして」というひらがなのノートが話題になっていますね。
 あの事件を知って、私は幼いころのある出来事をまざまざと思い出しました。ここ20年ぐらいほとんど忘れていたことでした。
 ノートに書かれていたという話でしたが、あれは半ば強制されたのではないか。
 
 じつは自分も同じようなことを両親に書かされた経験が何度かありました。その記憶がよみがえってきた。少なくとも小学校2年生より以前です。幼稚園生だったかもしれません。私はそのころから字は書けました。何か悪いことをしたのでしょうね。両親に対して悪いこと(といってもたかが知れていますが)をした。それを父が怒って詫びる文章を書けという。
 何度も書き直しをさせられました。こんなのは心がこもっていないと叱られて、最後は土下座みたいな文章になりました。
 
 それを父は壁に貼りだしたのです。お客さんーー多くは親戚の人間でしたがーーが来たときに、私が反省して自主的に書いた手紙であると適当なことを言って大人同士で笑いながら見ていた。もうしません、今度したらご飯はいりませんというようなことを書いたのではなかったか。親戚の人は「謝罪文を自分から書くなんてなかなか偉いじゃないか」と言っていました。
 私は猛烈に恥ずかしかった。本当の気持ちなんてこれっぽっちも入っていない。何というか・・・全裸の写真を壁に貼りだされているような被害者意識さえ持ちました。
 
 ああいうことをするべきではないと本当に思います。文章はしばらく貼られていて、見るたびにくやしいような恥ずかしいような泣きたいような惨めな気分になりました。何がごめんなさいだ、何がもうしませんだと思いましたよ。自分は少年期になると両親とまったくうまくいかなくなりましたが、ああいう幼児期の経験は大きかったように思います。
 そういうことが平然とできる無神経さが許せなかった。彼らが絶賛する価値観には絶対に同調しないと決意したものです。優等生などというのも、その最たるものでした。
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2018.06.10 00:09

 私の仕事というのは簡単に書いてしまえば「先生」ということになります。Z会という塾の先生ですね。するとまあ、たとえば授業をする。授業ではチョークを使います。私は比較的ていねいに使ってはいますが、当然粉が飛んだりして場合によっては着ている服がかなり汚れることがあります。
 そういう環境下で着ている服ですから、そんなに上等なものでなくてもいいという気持ちになります。考え方によっては作業服なわけですよ。
 
 また私の仕事はどこかの王さまや貴族にお目にかかったりする機会はーー基本的にーーありません。生徒と話すことは頻繁にありますし保護者の方とお話することもありますが、すごくドレスアップしていなければ成立しないかというとそんなこともありません。失礼にならない程度に、たとえばネクタイをしめたり上着を着用したりということはもちろんありますが、ものすごくいい服を着ていなければお話もできないということはないでしょう。
 たまに気まぐれで高いスーツを買ったりする機会がないではないのですが、それは個人的な趣味でしかない。
 
 消耗も激しいので、安い服をたくさん買わざるを得ない・・・みたいな感じになります。そしてじつは私は同じ服を買うことがときどきあります。考えるのが面倒なのですよ。このジャケットだったらこのスラックスがぴったり合うということがわかっているときに、べつのジャケットとだったら合うだろうか? ということを考えるのが億劫なのですね。それで同じ服を同じお店で買ってくる。同じお店なら同じ服を売っているだろうということです。
 
 生地も形も値段も同じ。これなら安心ということで2つ並べますね。もう1つ買っておこうかなと変なことを考えて内側のタグというのですか、内ポケットの中側にサイズなどと一緒にどんな風に洗濯したら良いのか書かれている札がありますね。あれを見比べてみて「あっ!」というときがあります。
 違っているのですよ。作っている国が違う。メイド・イン・何とかという国名がなぜか違うのです。たとえばあるジャケット、まったく同じものですが1年たったら国名が違う。
 
 去年買ったものは中国でした。今年はベトナムになっています。さまざまな事情があるのでしょうね。おそらく儲けが大きいとかトラブルがどうとかとかいう理由なのだと思いますが、面白い。
 これからも安い服はたくさん買うと思いますが、こういう研究(?)は続けていこうと思っています。服側の気持ちは、全然ちがうでしょうからね。
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2018.06.09 01:38

 すべての人間に神さまのようでいてもらいたいという気持ちがあります。冗談でもないのですよ。おそらく各人が最高度によく生きられることと、私の期待とは重なってくる部分が出てくるはずです。ですから、それぞれの方が最高度の幸福を得て大きな社会貢献を発揮されるために、神さまに近づこうという勇気は持たれてもいいのかもしれません。
 かなり昔の生徒からある相談を受けました。人生をどう考えたらいいだろうという話でした。ともかくいやになってきているという。
 
 上司も苦痛、同僚も苦痛、部下も苦痛。仕事内容も全然楽しくない。自分よりいい加減な人間が上にうまく取り入るだけでどんどん出世していく。まあ、そんなこともあるかもしれませんね。問題はここからです。
 だからもう真面目に働くのはやめているというのです。営業に出てもだいたいは適当に時間をつぶす。ビールを飲みながらスポーツ観戦していることもある。周囲もみんなそんな感じだし、真面目に働くと損をしているような気持ちになる。
 私は次のような話をしました。
 
 私は基本的にこういう仕事しか知りません。これまで、いくつかの場所で仕事をしてきました。中にはいい塾もあったしそうでもないところもあった。とっくの昔に閉鎖されてしまった教室もあります。そこで働いていたとき、私は相対性の中に溺れてしまって自分自身を見失っていたように思います。
 つまり「あんなにサボっている」「あんなにずるいことをしている」「それでいてあんなに稼いでいる」・・・他者のそんな要素ばかりがちらついて、よし自分ももっともっと手抜きして楽をして効率よく稼いでやろうと考えました。
 
 実際、ある程度そうした試みは成功したのかもしれません。ただやはりあるとき、これはいったいどういう人生なのだろうと疑問を持った。一生、こんなことをしていて自分はどこに行き着くのだろう。
 人間関係なんかでも言えますね。相手が不機嫌である。面白くないので、こちらも不機嫌にしている。そうやって意味のないマイナス均衡を保とうとあくせくする。本来は明るく陽気でいたいのに、いつもいつも相手に負けないぐらい不機嫌で通す。不毛な軍拡競争みたいなものです。
 
 大切なのは周囲がどうかではなく、ご本人が本来の神性を発揮できているかということでしょう。周囲がどうであれ、前向きに真摯に日々の生活に取り組んでみてください。勉強でも仕事でも人間関係でも何でもそうです。
 私は人々が世の中を本当によくしたいのであれば、それぞれが世界のシステムのことばかり気にかけずに自己の内側にある神性を解き放つしかないとも考えています。生きる基準を神さまらしくする。
 
 この言動行為発想は、真の向日性に基づいたものかどうか、真の慈愛に満ちあふれたものかどうか、真の善性や美的観念に支えられたものかどうか、そういうことで決めていくべきですね。思考の習慣として、自然にそうなるといい。
 仕事をどうするとかパートナーをどうするとかは、その次の段階のお話でしょう。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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