2017.08.20 03:16

 知恵でいいのですが、わざと大げさに。
 前々回に書いた記事のことを考えています。読書をしない人は人生に真剣に向き合っていないのではないか云々の記事ですね。これは読書に限る必要はないと思っています。要するに友人知人との会話だけで、あるいはせいぜいテレビの娯楽番組に頻出するような概念だけで本当に人生がやり過ごせるものなのだろうか? という疑問を自分もまた持っています。
 
 たとえば私に何か破滅的な衝動が生まれたとします。それを家族や友人や職場の人間に相談したとしますね。当然、彼らは「それはやめたほうがいい」と止めてくださるでしょう。「絶対にやらないほうがいい」「それがおまえ自身のためだ」ともおっしゃるでしょう。
 常識というのはそういうものです。そしてまた私自身も破滅しないほうがいいとははじめから知っている。すると問題は、破滅的な行為がいいのか悪いのかというところだけにあるのではないということがわかってきます。
 
 なぜ、自分の中にそんな衝動が芽生えたのか? これは個人的な願望なのか人類に共通するものなのか? 歴史的に見てこうした衝動はどう評価されてきたのか? 心理学的にはどういう位置づけになってくるのか? 衝動を乗り超えるとしたらどのような精神修養や手段が必要なのか? 芸術活動に昇華したら?
 そうしたことをたとえば親戚や飲み友だちや職場の仲間にいきなり相談したらどうなりますか。そんなことばかり喋っている人間が近くにいたら、普通の生活を送っている人たちは迷惑に感じるだろうと思います。
 
 そんなとき、何らかの書物ーーインターネットの検索でもいいのですがーーで過去の偉人たちの知恵(当然言語化されたものです)に耳を傾けるというのは非常に価値のあることですし、そうせずにはいられないのが「人間の本質」ではないでしょうか。
 いまから30年ぐらい昔、いわゆる精神世界に凝っていた時期があるのですが、そのとき斬新だと興奮していた思想の数々のエッセンスをその後古い宗教書などで次々と見つけ(パクったとか何とかという話ではありません)、やはりこうしたものもまた先人の知恵の結晶だったのだと感じました。
 
 勉強(仕事)をばりばりこなして常に明るく親切に、わが身を犠牲にしてでも世の中のために頑張るのがりっぱ・・・などと定義されても、何かしらうまくいかない要素が出てくるのが人生というものでしょう。そこに気づいていないから、楽しく話すだけですんでしまう。幸せなことではあるでしょうが、深みには欠けるかもしれない。深みに欠けた人生観だから深く考えるのが苦手という可能性もあるわけで、それこそ勉強ができるようになるためには深く考えられないといけないですね。
 読書に励む人たちの成績がいいのは、そのあたりにも1つの原因があるような気がします。
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2017.08.18 07:17

 動物が寄生の意味ではなく他の動物を意識的に「飼う」ということはあるのですかね。他の動物を飼うのは人間だけであるような気がするのですが、どうなのでしょう。よく狼に育てられた人間の話を聞くことがあります。あれは狼が人間を飼っているというより何かの関係で自身の子どもだと勘違いしてしまったのだと認識しています。
 いわゆるペットとして飼うのはどうしてなのか。犬が来てから改めてそんなことを考えるようになりました。
 
 私自身、これまで犬だけでなく、亀、鳥(何種類か)、カブトムシなどの昆虫類(幼いころ)などを飼ってきました。ほかにもカニ、ヤドカリ、メダカ、金魚、どじょう、すごいところでは貝を飼おうとして失敗したことがあります。なぜ飼ったのかと言われると単純に面白かったからとしか答えようがないですね。
 子どものときは面白いだけでしたが、大人になるに連れて対象の生物を擬人化するようになりました。心が通じていると思いたくなってきた。
 
 大きい動物であればあるほど、心が通じているような気分になります。うずらを飼っていたときは私のあとをついて歩いたりするので、かなりわかっているらしいという感触を持ちました。亀も私と他の家族とでは反応が違ったので、自分のことがわかっているのだなと勝手に想像しました。
 犬はもちろんこちらのことを覚えますから、人間側が思っている状況とは違うにしてもとにかく心は通じます。「おすわり」と言うとすっと座る。
 
 ときどき家内が大きくなった犬を抱きかかえて狭い部屋をうろうろしていることがあります。脚があるのですから歩かせればいいのに、子守みたいに抱いたままうろうろしている。さすがにまだ頭がぼんやりしてくる年齢ではないので、何かの勘違いではなくそんなことをしたくなるのでしょう。
 不思議な光景ですが、要するにかわいい。かわいいのであえて抱いてやりたくなる。私も部屋の中はうろうろしませんが、膝の上で撫でてやることがあります。
 
 家内は優しい人間で、幼いころの息子でも鳥でも犬でも甘く甘く育てていました。相手が決まり事を破ってもそうは叱らない。どうしても破りたいのなら破ってもいいんだよ、そんなことではお前のことを嫌いにならないよという感じで接していました。そのことで息子も鳥も犬も情緒が安定してきた。ピリピリ感がないのです。深い愛情に包まれているという自信がつくのでしょうね。
 しつけはもちろん大切ですが、大前提としてとにかく愛されているという安心感を持てないといけないですね。交換条件見え見えの愛情では、なかなか本来の力が発揮されないように思います。
 
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2017.08.17 00:43

 夏期講習中3のクラスである文学作品を紹介しました。これこれこういう文庫本に入っている、さすがにこの夏は忙しいだろうからいずれ時間ができたら読んでごらんよと言った。翌日、1人の生徒が「きのうの帰りに買って読みました」と文庫本を持ってきてくださった。
 と同時に、昔もこういう生徒がいたなと思い出しました。講習の猛烈に忙しいさなか、紹介した文庫本を紹介した当日に読んでしまった受験生。
 
 彼らのクラスは20人ぐらいですかね。読んでくれたのが1人だとしても5%ということになります。5%ぐらいの仲間はこうしたことを日々当然のようにしています。彼(今年の生徒)は作文関係でもいろいろ結果を残しているのですが、蓄積がある以上当然でしょう。大量の文章の蓄積があってはじめてきちんとした文章が書けるようになります。
 
 先日は太宰治の文庫本が忘れ物で残っていました。中1生のものでした。
 忘れ物は翌日さっと受け取れるように受付カウンターに並べておきます。するとその文庫本を見て「私もこれ読んでいる」あるいは「自分も昔これを読んだ」と告げてきた生徒が複数いました。中学時代、太宰治の文芸作品に親しんでいる同年代がそれだけいる。それは5%どころではないでしょう。きっかけはそれぞれでしょうが、読む人は読んでいます。
 
 ある中1生は芥川龍之介の「羅生門」の解釈についてこれこれこういう考え方はないだろうか? と質問に来ました。なかなか鋭い指摘で、私は「よくはわからない」(芥川ではないので)が、きみの解釈は正しいように思えると伝えました。
 こういう12、13歳がいる。楽しむだけではなく、こうも考えられないだろうかと自分なりの考察を加えている。それこそ将来教科書で「羅生門」が出てきたときには相当深く理解できるでしょうし、テストでももちろんいい点数をとるでしょう。
 
 教科書問題集以外の「古典」(単純な古文漢文という意味ではありません)を純粋な知的好奇心から読んでいる。だからーーあくまでも結果的にーーテスト程度なら軽くできてしまう。できるようになるためにそうしているのではなく、彼らは成長過程で文学だとか哲学だとか詩だとか活字表現だとかを必要としているのです。そういう生き方を選択しはじめた。ある文豪は「読書しないですむのは、その人間が真剣に人生を考えていない証拠である」という言葉を残しています。友人家族では簡単に答えが出てこないような人生の深淵さに真剣に立ち向かっていない証拠だというのです。
 
 あなたが生や死や愛や憎しみや人間の美醜や人生の不思議さにある種の困惑と戦慄を覚えたとき、同世代の近しい友人の言葉だけでは絶対に満足できない何かを感じるはずです。そのとき何かしらヒントを見つけ出せそうなものは、人類の叡智が詰まった先人の言葉以外にないのではないか。そうした真剣な生きざまに、そろそろ踏みこみはじめた仲間が出てきているということです。「どうしたら勉強が短期間ですごくできるようになりますか?」といった小手先のやりくりだけではどうにもならないということがわかりますか。
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2017.08.16 07:17

 私たちは無意識のうちに自分に騙されていることがあります。本当の自分と頭の中の自分が違っていたりする。すると行動がちぐはぐになり、どこに向かっているのかわからなくなりますね。
 たとえば勉強ができるようになりたいとさかんに言っている人が、本当は勉強なんかどうでもいいと考えていることがあります。できるようになりたいという理由が注目を浴びたいとか、そうなればいくらでも遊べるからというだけであったりした場合、なかなかうまくいきません。人間は本当に愛情を抱いているものしか得意にならないからです。
 
 信じこんでいることとご本人が深い部分で望んでいることがおおいに違うというのは大人でもよくあることで、珍しいことではありません。
 若いころの自分は、単純にお金持ちや偉い人になりたいと考えていました。それ以外の生き方は想像できなかった。ところが長い年月のあいだに本当の自分はそんな願望を持っておらず、ただ自由気ままに生きていきたいだけなのだということがわかってきました。当初は「ウソだろ?」という感覚もありました。
 
 つまり、お金持ちにも偉い人にもならなくて大丈夫なのか? と常識との乖離に不安を持ったわけです。幼いときから家庭でも学校でも「偉い人になるために勉強するものだ」と教わってきている。それが根底からひっくり返ってしまっても本当に安全なのだろうか? という恐れがあったのです。
 自分はしかしそうした生き方にチェンジして正解だったという気持ちがあります。他の誰かとして生きなかったことは本当によかった。
 
 自分のことはわかっているようでわかっていないものです。音楽は何が好きかと質問されたら私はいまでもハードロックとかヘヴィ・メタルとか答えると思うのですが、ここのところふだん聴いているのはソウルミュージックばかりです。しかも、70年代80年代の古いソウルが多い。
 昔は朝から晩までメタルばかり聴いていた時期が確かにありました。自己イメージだけ昔のままで、本当の自分は変わってきているということなのでしょう。日々更新されていく。
 
 本質的な部分とつねに変化していく部分と、双方を正確に把握していくためには冷静な自己観察や内省的な観照が求められます。「汝自身を知れ」という有名な言葉がありますが、すべてはそこに行き着くのかもしれませんね。
 
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2017.08.15 06:07

 先日、こういうことがありました。具体的に書くと埼京線ですね。ある駅で到着が遅れていた。何度も構内アナウンスがあり「急病のお客さまを途中何々駅で救護した関係で・・・」とおっしゃっていました。遅れたといっても5分ちょっとですからたいしたことはありません。
 私はこの「車内で急病」について考えました。どういう状況で救護されたのか。以前自分も車内で突然倒れた人間を目撃したことがありましたが、どうしようもないので隣駅で下り「いまの電車の4輌目で男の人が・・・」と改札口の駅員さんに知らせました。
 
 倒れた瞬間を見てもまさか電車を止めるわけにはいかないですから、そんな方法しか思いつきません。つまり何々駅の手前でどなたかが知らせて、駅員の方が待機されていたということでしょう。
 遅れてきた電車に私は乗りました。するとまた車内アナウンスがあった。「この電車は車輌点検をした関係でただいま5分ほど遅れて走行しています」このアナウンスは複数回流れました。「車輌故障による点検」だったかもしれません。正確ではない。ただ車輌点検関係だったのは間違いありません。
 
 急病人救護のことを車輌点検とは呼ばないでしょうから、けっこういい加減だなとは思いました。最近は電車が遅れたときじつにいろいろな理由がつきますが、ひょっとするとこの程度の正確さなのかもしれません。悪気はないにしても理由が曖昧である。駅員の方も何から何まで現場を「目撃」しているわけではないですからね。これこれこういう理由で遅れていると言われれば、そのままアナウンスするしかないでしょう。
 ただこういうことをどう解釈するかは人それぞれです。
 
 若いころ、私は生徒が遅刻してくるとけっこう細かく理由を訊いていました。するとあやしい遅刻が混じってくる。「部活が・・・」と言いながら、不自然にそわそわしている。私もまだ若くてそういう姿勢が許せなかったので、さらに「何時に学校を出たのかね?」と意地悪な質問をしたりしました。相手はしどろもどろになるのですが、教育的指導というよりは「あの先生は騙せない」と感じさせたいだけだったような気もします。
 現在の私はそういうことはしません。遅れてきた生徒がいたら「何ページをやっているよ」と教えるぐらいです。
 
 遅刻してきた理由がどうであってもいいとも思っています。あまりにも度が過ぎる場合は考えますが、ある日ふらりと遅れたぐらいであればとくに問い詰めたりはしない。ここからしっかりやってくれれば十分ですし、そもそも世の中にはある程度の曖昧さみたいなものが残されていたほうがいいのではないかと判断するようになりました。
 電車の遅れの原因が、お客さまの救護と車両点検の差異ぐらいであれば容認するのと同じかもしれません。
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2017.08.14 03:21

 戦という文字をつけることはないですね。私は言葉が現実を作っている要素が強いと思っています。ですから本来は「受験戦争」などという表現も慎むべきではないかと考えることがあります。あえて指摘したいのでわざと「後半戦」というタイトルは残しておきますが、要するにそういうことです。
 わかりやすいから使うというより、もともと人間は好戦的な動物なのでしょう。ただ気をつけないといけない。国家と国家の関係なんかもそうです。とくに上に立つ人間こそ過激な表現は慎むべきでしょうね。
 
 政治的な話題は好むものでもないので、話を変えます。
 4連休、ばたばた過ごしました。予定がいろいろ入っていたので順番にこなした。完全なオフは1日だけでした。休み前体調を崩しましたが、そのあたりはかなり回復したように感じます。まだ体重は戻らないですね。
 私は大学生のころ56キロぐらいでした。20歳ぐらいのときです。それからゆるやかに太ってーー自然だと思いますーー21世紀に入る40代は62キロ前後になっていました。調子は悪くなかったですよ。
 
 身長170センチ62キロというのはちょうどいい感じでした。私は毎日体重を量っているので、それ以上になったときだけは気をつけていました。下回ったときは「1度は通過した道」という気楽さがあり、あまり気にしてきませんでした。
 それが今回体調を崩して58キロ台まで落ちました。20年ぶりぐらいだと思います。自然減なのですが、若干ふらふらしますかね。
 いろいろ理由があると思います。東洋医学的な面白い話なので書かせてください。私は、今回の不調は靴のせいではないかと思うのです。
 
 以前、左足が悪い話は書きました。奇跡的にぴったり合う靴を見つけて10年以上同じ種類の靴だけを買い続けてきました。ところが今年、その靴が突然製造中止になったというのですよ。困りましたよ。仕方がないので別の靴を買って履いています。微妙に合わないのです。痛いと言えば痛い。しかし、健康な右足のことを考えるとこのへんで妥協しなければという感じがある。で、「つねに左足について気にかかっている」状態を続けています。その微妙さが不調を呼んだような気持ちがあります。
 
 もう1つ、職場の椅子を変えました。以前のものがぼろぼろになってしまったので新しいものを用意していただいた。渋谷教室に来て6年目ではじめてのことです。ありがたいのですが、これが以前の椅子と違ってーー新品なので当然ですがーー硬くてしっかりしている。その青臭い張り切った感じが疲れているのかもしれないけれども柔軟な(?)私と違う。椅子が私の感性以上に突き進む感覚があり、若干疲弊するのです。
 でも、後半(戦はとります)またしっかりやります。どういう形であれ、私たちは現在しか握っていません。であれば、ここからひたすらよりよく生きるしかありません。あなたにもあなたなりの「靴」や「椅子」の問題があるかもしれませんね。でも、ここからよりよく生きてくださったらいいと願っています。
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2017.08.10 07:39

 本日から4連休に入ります。自分の所属する首都圏高校受験の教室が休室日になりますので、ブログもお休みさせていただこうと思います。
 人間、生きていく過程で「真の自分自身になる」ことがいちばん大切ですね。自分自身になりきることが、結局は何よりの幸せだと思います。そして、その「自分自身」で世の中の役にたてれば申し分ない。世の中にはじつにさまざまな形の貢献があります。先日借りたDVDのうちの1つはお笑いでしたが、本当に面白くて世の中はこうした芸人さんを必要としているとつくづく感じました。
 
 ただ全員が華やかな芸能人や政治家、財界人などを目指す必要はないわけで、本当の自分になることと何がなんでも「大物になる」ことを混同してしまうと、自分が誰なのかがわからなくなってしまう危険もあるように思います。
 私自身はときどき、自分は自分らしくなることにだけは成功してきたなと感じるときがあります。16歳ぐらいの自分から間違いのない方向に来られたという気持ちがあるのです。自分らしく生きることに成功するほどの成功は、めったにあるものではありません。
 
 もちろんそれは個人的な問題であって、私の立場にどなたかが置き換わったら「これのどこが成功なんだよ」と思うでしょう。成功どころか大失敗かもしれません。そのへんは完全に個人の見解ですね。
 自分らしく・・・は数値化できないのですよ。年収や預金額や偏差値や点数で「これこそが自分らしい」とはなかなか表現できない。唯一例外があるとしたらそうした数値に徹底的にこだわる人間になりたいと心から決意された方でしょうが、あまりいらっしゃらないような気がします。
 
 お金に関しては、自分は支配されたくないと考えてきました。維持して増やさなければとふりまわされるのもいやでしたし、まったくなくて身動きがとれなくなるのもいやでした。必要なだけあればいいと考えてきて、おかげさまで必要だけは満たされてきたように感じます。
 授業をしていてーーいまは中学生だけを教えているわけですがーー彼らと波長が合う精神性を維持していることは誇らしく感じるときがあります。お互いが迎合しなくても、私が面白いと思う話と彼らの好奇心とが一致する瞬間が多々あるのです。
 
 形だけのことですが、猛暑日でもつねにスーツにネクタイで炎天下を歩いている自分にも満足しています。高校1年生のとき、私は年間を通して詰襟の冬服で高校に通いました。あのころの自分が現在の私を見たら「お、まだ続けている!」と感動するでしょう。そういうところも自分らしく生きた。合理的に考えたら真夏は薄着のほうが楽に決まっているのですが、こう生きたい何かがあって守りぬきました。
 ただ微調整だけはつねに必要であり、ちょっとだけ長い休みに生き方についてよく考えます。そういう意味で、休みもまた有意義なのかもしれないですね。
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2017.08.09 04:23

 先日、自分の体重を量ったあとで犬を抱いて同じ体重計に乗ってみました。2回試してみたのですが、どちらも7、3キロ多い数値が出ていました。つまり犬の体重は7、3キロということですね。
 はじめて来たときは2キロ台だったような記憶がありますから3倍ぐらい大きくなった。だいたい8キロ程度になると言われていたそうなので、外見上はほぼ成犬になったということだと思います。
 
 7、3キロというのはけっこう重く感じます。こんなものを抱えて外をうろうろしたらすぐに息切れしてしまうでしょう。腕の中で犬が暴れる暴れないは関係なくですね。階段なんか上り下りしたら本当に大変だなと思いました。
 ところで私の現在の体重に仮に7、3キロを足したとしても、そんなに肥満体ということにはならないと思います。身長が約170センチで体重が66キロ台の男性は珍しくないですね。
 
 珍しくはないものの、もし体内にこの犬一匹分の脂肪だか何だかがついて生活しているとしたら、現時点と比べて相当負担でしょう。心臓にも肺にも骨にも負担がかかる。毛細血管なんかにも負担がかかるでしょう。
 私は毎日体重を量っていますから体重増では悩んだことはありません。ダイエットなどにもほとんど興味がないのですが、やはり急激に体重が増加していくのはちょっと危険だなと思いました。
 
 仮に犬2匹分とすると15キロです。何年間で15キロ太ったという方はいくらでもいらっしゃると思います。内側だと気づきにくい部分がありますが、この犬を2匹両腕に抱えて日々の生活をしろと言われたら・・・とても続かないですよ。
 健康法というのはいろいろあるでしょうが、適性な体重を維持するというのはかなり大事なことなのかもしれません。犬を両腕に抱えていたら(そうした負荷が身体にかかっていたら)、どのようなサプリメントや健康法も役立たないような気がするのです。そんなことよりまず抱えている犬を下におろしなよと言われそうな気がします。
 
 改めてそんなことを考えました。犬をおろすだけで、かなり楽になりますね。
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2017.08.07 00:11

 おそらく歳をとって体力が落ちてきているのでしょうね。おとといの夜、帰ってきてからちょっと具合が悪くなりました。昨日6日はつらかった。具体的なことは省きますが、高熱が出たとかそういうのではありません。バランスが崩れたのだと思います。
 今年から犬が来た関係で、私の部屋にクーラーの風が届かないのです。扉を閉めているから届かないのですが、まあいろいろ事情がありそのあたりは仕方がない。するとかなり暑くなります。マンションですから外気温より高くなる。
 
 で、ぐっすり眠れていない感じです。毎晩毎晩、ぐっすりではない。しょっちゅう目が覚めます。
 大丈夫は大丈夫ですけどね。講習の前半が終わろうとしています。授業は今日7日でとりあえずおしまい。あとはテストと採点ですね。で、10日からは4連休に入ります。そのまえも念のために1日どこかで休むつもりです。
 家内や息子とは夏休みが完全にずれてしまいました。まあ、1日ぐらい何か食べに行こうかと話しています。犬は連れていけないな。
 
 体力というのは不思議なもので、たった1度だけ体温が高いとかほんの1キロ体重が減ったなどというだけで、かなりふらふらしますね。ふだんはけっこう身体に無神経な生活を送っているのですが、本来は繊細なものなのだなと改めて感じました。
 つい最近もブログに書いたのですがーーそしてそのあとさらに何かの記事を読んだのですがーーお風呂の人とシャワーの人を比較したら、お風呂習慣のある人のほうが幸福感が強いと書いてありました。きちんとした集計みたいでしたよ。
 
 今年は真夏でも時間があるときはお風呂に入るようにしています。朝風呂ですね。さっぱりしてから仕事に行く。息子が夜帰ってきて「まだ十分入れるよ」(沸かす機能はついていません)と言う。冬だと半日で冷たくなってしまうのですが。
  食欲がもうひとつ出てこない。昨日の基本は、コーヒーとワインだけですね。渋谷でいいお店を見つけたので行こうと考えていたのですが、お盆明けにするかな。さらにじつは「ライフ」という映画を今晩見に行こうか(午後の10時からの回)と企んでいたのですが、やめておくことにします。昔だったらあとさき考えずに行ってしまったのですが。
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2017.08.06 00:08

 お年寄りがお孫さんと話しているときによくある話ですね。お年寄りはーーまあ、たいして面白くない内容かもしれませんがーーとつとつと語ります。それをじーっと聞いていてときどき「すごい!」とか「信じられない」とか合いの手を入れるような感心な10代がいらっしゃるかと思うと、こんな話聞いていられるかとばかりに途中で「ぼくさあ、このまえ学校で・・・」と強引に自分の話に持っていってしまう少年少女も出てきます。
 そうなっても、お年寄りはだいたいにこにこ聞いてくださるわけですが。
 
 聞きたい話しか聞けないという若者が増えているような気がします。あたりまえじゃないかと言われそうですが、たとえば入学試験、国語の問題であなたの興味のある話だけが出てくるとは限りません。むしろ10代の少年少女にはちょっと難しい、読みにくい、理解しがたい評論ーーしかも紙の上に書かれていますから表情も声の抑揚も何一つ手がかりになりそうなものはないーーが出てきます。大量に、複数出ています。
 人の話でさえじっくり聞けない人間が、そうした長文をじっくり読むことができるものなのかどうか。
 
 ときどき読解問題ができないと相談に来る生徒がいるのですが、3割ぐらいは読解がどうのこうのではなく人の話を聞けない症候群という印象を受けます。自分のことを話さずに徹底的に相手が伝えたい何かを探る機会を持ったことがないのです。それがなぜか許されてきてしまった。そうではなく、何か発言したいのであれば相手の話の内容に限定した話題にしてください。おれなんかさ・・・みたいな展開にせず、どこまでもどこまでも相手の話に追従していく忍耐力が必要です。
 相手の話がどんなにつまらなくてもです。入試問題の長文がどんなにつまらなくても正面から対峙せざるをえないのと同じことです。
 
 長文問題を読んでいて「何が何だかわからないや」とすぐに投げ出してしまう人もいますが、だいたいにおいて「理解しよう」という根本的な覚悟に欠けています。お年寄りが一生懸命話しているのを(きっとこの人なりに伝えたい何かがあるのだろう)と相手の気持ちに想像力を伸ばしていくやさしさや忍耐力が欠けている。
 1つの対処法としてーーこれはあくまでもご本人が決意すべきことですがーーたったいまから徹底的に人の話を聞くクセをつけるという手はあるかもしれません。余計な口をはさまない。徹底的に聞き役をつとめる。
 
 一方的に喋り散らしてばかりいる生活では、じっくり読む=相手を徹底的に受け止めるという精神状態にはなかなかなれないでしょう。お子さんが小さいのであれば、おうちの方はふだんの会話に気をつけられるといいと思います。徹底的に話を聞ける方向に導いていかれるといい。積極性と反対方向に進むように見えるかもしれませんが、まずとにかく聞く。発表するのはそのあとです。聞くことだけが世の中を救いますよ。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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