2017.12.17 02:56

 少し前の話です。中央線の中に私よりは少しだけお若い年齢のサラリーマンの集団がいらっしゃった。4人組でした。忘年会のあとかもしれないですね。皆さん、ちょっと酔っていた。
 やたらと明るい方がいました。じろじろ見るわけにもいかないので、何となく観察していたのですが。寡黙な方もいらっしゃった。非常に実直そうな、真面目そうな中堅サラリーマンという感じでした。それなりに皆さん地位もあるのではないか。
 
 まあ、それぐらいの年齢になってくると生きてきた過程が顔に出ますからね。あるいは服装にも出てきます。私みたいにいい加減に生きてきた人間ではないということは確実にわかった。卑下しているわけでもないのですよ。私は私で、これでいいのです。
 会社内の話題などで盛り上がっていたのですが、そのうち寡黙な方がぽつんと明るい方に向かって「最近、ユーチューブで聴くのだけど・・・」とおっしゃった。「山下達郎って・・・本当にいいね」
 
 それから彼は初期の曲名をいくつかあげました。私もそのへんはよく知っていたので「うん?」と思って改めて聞き耳をたてた。
 さらに「歌詞もとってもいいね」とおっしゃった。「聴いているとじんとくるんだ」
 明るい方は大きく笑って「いったいどうしたのよ。んなの、もう30年以上昔の曲じゃない」とおっしゃった。正確に書けば40年前ですね。私は当時深夜放送で山下達郎さんご自身がデビュー・アルバムを紹介されていた番組を偶然聴いていたのです。「サーカス・タウン」とか「ウィンディ・レディ」とか。
 
 明け方近くでしたが、この分厚いサウンドは何だ! と興奮して身体を起こしたことを覚えています。山下さんはプロデューサーのチャールズ(チャーリー?)・カレロのことも熱っぽく話されていたような記憶があります。フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのプロデュースをされていた人物で、ザ・フォー・シーズンズの大ファンだった私はもちろん彼のことを知っていました。
 おそらくその寡黙な方は少年期に山下達郎さんの楽曲を聴かれて夢中になったのでしょうね。
 
 私が勝手に想像したのは、その方には何かしら現在つらいことがあるのではないかということでした。仕事のことか人間関係なのかお金の問題か、はたまたまったく違うことなのかはわかりませんが、何かあるような気がする。
 久しぶりに耳にした若き日々大好きだった山下達郎さんの楽曲が、何かしら心の支えになっているのではないか。
 音楽に限らず、芸術にはそういう力がありますね。儲かるとか損するとかではないのですよ。もっと根本的な、内側に共鳴する何か。そういうことだと思いますよ。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.12.16 01:01

 基本的に、生きることは選択の連続だと思います。あなたが何を選ぶのか。そしてまた1度選んだら金輪際変えられないというものでもありません。成長とともに選ぶ対象を変化させていけばいいだけの話です。
 私は自分自身がそうだったのでよくわかるのですが、成績がふるわない中学高校生は仮に勉強しているように見えても本心から勉強を選択しているとは言えないことが多いものです。だからだめという意味ではないですよ。
 
 うきうきと心から喜んでやっていない。うきうきと心からやっていないものに関しては、同じことをうきうきやっている人にはほぼ例外なく負けます。向かう姿勢が全然違う。
 いやいや将棋を勉強している人はプロ棋士にはなれないでしょう。走るのがいやでいやで仕方がなく走っているだけという人は陸上選手にはなれないでしょう。人前で歌を歌うのは恥ずかしいから大嫌いという人は歌手になれません。
 同じことなのですよ。
 
 学校でテストがあるから、受験があるから、そうしないと叱られるから・・・そんな理由では届かない深遠な世界があるということです。
 勉強を好きになる方法は人間の数だけあるでしょうが、食事にたとえればまず何といってもお腹をすかせる必要がある。満腹ではどんなご馳走も喉を通りません。それと同じです。
 そのためには生活を少し整理して落ち着いたものにする。用事だらけなら隙間を作る必要がある。
 
 私が「やらなくていいことはやらないほうがいい」と言うのはそのあたりの事情をさしています。そこまで娯楽に時間をつぎこまなくてもいい。そこまで友だちとべったりくっついていなくてもいい。勉強というのは隙間ができてはじめて、少し頑張ろうかなという気持ちになるものです。勉強する以前に、内省的にご自身のことをあれこれ考える時間も必要です。
 次にできるだけ「映像以外でも」学ぶようにしてください。映像教材は大変役立ちますから活用してください。ただ絶対に活字「だけ」から学ぶ時間も大切に。
 
 これは入試の実情と密接に連動します。本文に図などがないケースで、活字の文章内容を読み取れずに「勘違い」する生徒がすごく増えている。勉強に限らず生活全般で映像に頼りすぎるからだと思います。
 最後に、少しでも興味のある1教科を選んで何が何でも得意科目にしましょう。その教科だけは負けないというプライドを持つ。とにかくまず1教科に全力を尽くす。
 余計なことをセーブして時間を作る。活字からも学習する。得意科目を作る。そのへんからのスタートでうまくいきますよ。頑張ってください。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.12.15 09:40

 漠然と好きなものは? と質問されたらそれこそいくらでも答えられますね。どのジャンルでもそうです。ただそれに「いちばん」がついて「いちばん好きなものは?」と訊かれるとかなり迷います。
 どうしてなのかと考えてみたのですが、要するにいちばんということになってくるとこちらの人間が試される感じが強まってくるからでしょう。私はこういう人間なんだぞという自己表現に近い表明になりますから。
 
 たとえばいちばん好きな食べ物は? と質問されて、仮にコロッケと答えそうになるとします。コロッケは確かに好きですが、あまりにも凡庸であまりにもありきたりであまりにも子どもっぽい・・・などと躊躇して、もう少し深みを感じさせたいと無邪気な回答を封印してしまう。で、ひねりにひねって「うな茶漬け」と答えてしまったりします。
 食べ物のような他愛のない話題でさえそうですから、いちばん面白かった文学だのいちばん尊敬する人間だのと質問されたときは相当迷うことになります。
 
 以前、あるロック系のお店でブラック・サバスのアルバムではどれがいちばん好きか? と質問されたことがありました。私は「テクニカル・エクスタシー」と即答したのですが、相手の方に「サバスのどのアルバムがベストかという質問に『テクニカル・エクスタシー』と答えた人ははじめてだ」と言われ、自分はひょっとすると(ほとんど意識していないのですが)わざと答えたのかもしれないと感じました。
 要するに「にわかファンとは違うのだ」ということを伝えたくてそう答えた可能性があるということです。もっとも本当に好きなアルバムではあるので、どの程度不純な動機が混入しているのかは私自身にもよくわからなくなっています。
 
 いちばん好きな将棋の戦法→四間飛車、いちばん好きな動物→犬、いちばん好きな食品→ビール、いちばん好きな季節→夏、いちばん好きな映画→タクシー・ドライバー・・・このあたりまでは比較的気楽に答えられるのですが、以前も書いたようにいちばん好きな小説が本当に梅崎春生の「幻化」であるのかどうかは私自身ももうよくわからなくなっています。
 あの作品には、精神病院から脱走して旅に出た中年の主人公(梅崎自身にも同じようなことがありました)が焼酎に酔って海辺で1人でチンドン屋さんの真似をして踊る場面がありました。
 
 それを遠くから子どもが見ていた。慌てて「小父さんは気違いじゃないんだ。安心しなさい」と弁解する。そのあたりの感覚に私は非常に強い共感を覚えました。人が見ていないところでふざけて踊ったりすることは私の人生にも何度もあった。しかし、そういうことを絶対にしない人もいます。する人間は何度もします。それはなぜなのか。何が違うのか。なぜふざけるのか。どうして「普通」ではいられないのか。
 仲間を見つけた気持ちですね。それでいちばん好きと言いたくなるのかもしれません。
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.12.14 00:25

 東京のある立ち飲み屋さんに「納豆オムレツ」というメニューがあります。私がこの立ち飲み屋さんに入ったのはほんの数回です。チェーン店なのでとにかく安い。必然的に混雑しますね。すると何となく気おくれして入れなくなります。混雑したお店に入って周囲の方につめていただいたりすることを私は極端に申し訳なく感じるのです。
 不思議なものですね。自分がつめるのはけっこう好き(?)なのですよ。ここ空いていますよ、とか。
 
 はじめてこのメニューを意識したのは先月でした。休日の夕方、ちらりと飲んでいたら若いお兄さんが食べていました。それだけではさほど気にならなかったかもしれません。そのお兄さんは納豆オムレツを食べ終わったあとでこう注文しました。
 納豆オムレツ、もう1つください。
 さすがにうん? となりますね。たて続けに2つ食べている。そんなにおいしいの? と気にはなるものの真似していることがあまりにも露骨なので、その日は注文しませんでした。
 
 次の機会に注文して、一口食べてふーんと思った。中の納豆には味がついていました。おいしいことはおいしいのですが、連続で2つ頼むほどでもないだろうという気がしました。
 ふと見るとメニューの納豆オムレツのところに何か書いてあります。うま味調味料をふりかけて食べると猛烈においしいという意味のコメントがついている。半信半疑でふりかけて食べてみた。するとこれが確かにすごくおいしい。
 
 ジョリジョリした食感もいい感じなのです。うま味調味料をたくさん食べすぎるのは身体によくないという話を聞いたことがありますが、まあいいやとたくさんかけてしまいましたよ。
 お店の人が作っているところを細かく観察していたのですが、納豆はパックのものでした。付属のタレを入れてかきまわす。それだけです。タマゴは2つ使っていたように見えました。で、すぐにできる。これで150円ですから安いですよ。手もとに届くと身体に悪いかもと思いながら・・・うま味調味料をかけます。
 
 うま味調味料についてはかつて太宰治がいろいろ書いていた記憶があります。いくらだか筋子だかをうま味調味料(具体的な商品名でしたが)できらきら光らせて・・・という類の記述を覚えています。あの時代、田舎でその生活水準はなかなかすごいと思いました。洗練された食卓ですよ。そうした生活が送れたこと自体が、ある種独特の美学や文学の源泉となったのかもしれません。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.12.11 08:53

 結局人間社会でいちばん大切な力は伝達能力ではないか。伝達能力と表現すると難しい感じがしてしまいますが、簡単に書けば「好かれる力」「わかってもらえる力」みたいなものでしょうか。極端に緊張したり迎合したりすることなく、あ、この人の話はいいなと感じさせる力ですね。
 ベテランの先生が推薦入試で合格していくような生徒ははたから見ているだけで(具体的な内申がわからなくても)予想がつくとおっしゃっていたことがありますが、ある意味そういうものかもしれません。
 
 逆に書くといくら学力が高くても伝える力がある程度優れていないと誤解されてしまう可能性があります。ですからとにかくコミュニケーションの力は意識的に鍛えていかないといけないですね。
 必ずしもお喋りで発言回数の多い人がコミュニケーション力に優れているとは限りません。無口でも上手に伝えられる人がいる。それこそ言葉以外でも大きな感情が伝わることがよくありますね。
 
 1つには距離感の取り方でしょう。相手の状況をよく観察、理解しているかどうか。あなたにも都合があるように相手にも都合がある。いつもいつも「ねえ、聞いて聞いて!」では場合によっては迷惑をかけてしまうかもしれません。また暇そうに見えても、相手は話したくない状態であるかもしれない。つらいこと気になることが山積している状態なのに、それこそテレビのバラエティ番組の話題を持ち出されたりしたらどうでしょうか。
 表情だけでいまの相手がどういう状態であるかということを読み取る能力は、ある程度必須だと思います。
 
 たとえば生徒が質問に来るときに、その種の能力にはかなり差があると感じることがあります。遠慮しすぎてもよくない。遠慮されてもこちらは困りませんが、生徒自身が気疲れしてしまう。いずれは質問はあきらめようというスタイルになってしまうでしょう。逆にこちらの様子を全然把握できないでわーっと来られるのも困ります。こちらが忙しくて困る以上にその「空気の読めなさ」は確実に矯正していかないと、世の中でなかなか認めてもらえる人にはなれません。
 
 ご本人の意識も大切ですし、周囲の協力も必要です。ご家庭できちんと物事を伝えられない人が、外で他者と円滑にやりとりできるはずがありません。
 日ごろのやりとりで大人側が、要するにこういうことなのだろう? と先回りしすぎてしまうとご本人はいつも楽をしてしまいます。「要するにこういうことなのだ」という部分こそご本人がまとめて表明しないといけません。人と人とのやりとりは、日々訓練です。生きるというのはそういうことなのだと思います。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.12.10 06:04

 味覚というのは幼いころの経験と密接に結びついているという説を唱えている方がいてーー受験生のテキストで見つけた話です。受験生のテキストは読み物としてもなかなか面白いと思いますよーーなるほどなと感じるときがあります。
 子ども時代の体験がないと、大人になってその食べ物をあまり好まないというのです。たとえば魚介類。圧倒的に海で遊んだ記憶のある方のほうが、大人になってからも好んで食べる確率が高いそうです。
 
 子どものとき大嫌いだった食べ物でいまは好きだというものがたくさんあるのですが、とりあえずは体験しておいたことが大きかったのでしょう。食べたくないと言うと母親に残さずに食べなさいと言われたものでした。
 カキ(貝のほうです)、レバー、ごぼう、しいたけ、チコリ、セロリ・・・まだまだあったような気がしますが、まずいまずいと言いながら食べさせられてはいました。母親は料理が好きだったので、その時代にしては珍しい食材を積極的に使っていた記憶があります。
 
 そうした食べ物はいまはむしろ好きなほうに入ります。そもそもごぼうなんて日本国内ぐらいでしか食べないそうですね。戦争中食べさせられたアメリカの捕虜の方が「捕虜だからといって木なんか食べさせるな!」と怒っていたという話を聞いて、思わず笑ってしまいましたよ。確かに食べ慣れないと木を噛んでいるような錯覚を起こすかもしれません。
 昔食べられなかったものは何となく好きになったりするのですが、1度も口にしなかったものに関しては、だめなものはいま練習してもなかなか食べられるようになりません。
 
 パクチーという香草が大人気みたいですが、私はあれは苦手ですかね。オシャレなものを苦手というと女の人にもてないような気がするので(私はつねに異性にもてそうかどうかということを行動の指標にしています)、食べられないことはないですよぐらいに語っているのですが、じつはおいしいとは思えません。
 神田で会議と会議のあいだにある中華料理屋に入り、よく見ずに適当なものを頼んだらパクチーだらけの麺が運ばれてきてしまったことがありました。パクチーだけぜんぶよけて食べましたよ。
 
 子どものときの体験がないことが大きいのでしょうね。
 こういうのは、じつは味覚だけではないのかもしれません。子どものときにそれなりに知的な遊びであるとか愛情にあふれた激励であるとかやわらかな指導や叱責だとかを経験しておくことは、じつは大切なことであるように感じます。そのときはわからなくても大人になってしっかりしてくる可能性があるからです。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.12.09 00:31

 現在の日本でごく一般の方は、深い宗教生活に支えられているわけでもないように感じます。初詣に行かれたりクリスマスをお祝いされたりはするかもしれませんが、日々高度な宗教的概念と向き合っていらっしゃる方はむしろ少数かもしれません。
 占い師に占ってもらう。あるいは占い番組を見る。で、よければうれしい。悪ければちょっと心配する。場合によってはパワースポットに出かけられたりもするかもしれませんね。ただ半信半疑状態ではあるようです。
 
 お守りを買っても全面的に信じ切っているわけではない。ですから何種類も漠然と買ってしまう。おみくじを引いて吉が出てもさほど喜ばない。凶が出てもさほど悲しまない。深い確信を抱いてはいないからでしょう。
 科学文明が飛躍的に進歩して、昔の人が信じていた(畏怖していた)レベルでは神さまを信じにくくなっている。もちろん深い信仰心を持っている方もたくさんいらっしゃるでしょうが、あくまでも平均値の日本人の生活ぶりはそんな感じに変化してきていると思います。絶対的なものさしがないから頼りないと言えば頼りない。
 
 しかしこういうことはあります。あなたが大人でも子どもでもどちらでもいいのですが、ここからのあなたの人生がどうなるかということは、ひとえにあなた自身の構想にかかっています。大きな流れはご本人が意志的に生み出せるし生み出すべきものです。その過程でいろいろ事件は起きるでしょうが、それでもどうするかを決定できるのはじつはご本人だけです。
 ということは・・・少しだけおおげさに書けば、あなたの世界の神さまはあなた自身だったということになりますね。ぜんぶ決められるわけですから。
 
 確かに他者の考えをすべて見通したり空を飛んだり手を触れずに物体を動かしたりという超能力は獲得できないかもしれませんね。そういう点ではあなたが考えている神さまとは少し違う可能性もあります。ただ自分の人生を構築する力を持っているのであれば、別に空を飛べなくても十分だと思いますよ。
 いままでうろたえて外部にのみ求めていた何かを自分自身の中に丁寧に見つけ出す。何のことはない。ご自身が最大のパワースポットでした。
 
 すべての問題に対処できる魔法の手段は「内側を一生懸命見つめてごらん」です。内側の旅に出る。何かしら必ず希望が見出せると思います。
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.12.08 03:18

 怒るというのは人間だけの感情ではないですね。うちの犬を見ていても何かをとりあげられそうになるとーーその何かは紙の切れ端であったりビニールの袋であったりじつにつまらないものばかりなのですがーー「グルルルル・・・」と低いうなり声をあげて怒ります。かわいいだけですけどね。
 他の動物も怒りますね。鳥でさえ怒る。たぶん昆虫なんかにもある種の怒りの感覚はあるのではないかと思います。
 ですから自然です。ごくごく自然な反応で、異常なことではありません。
 
 なぜこんなことを書いているかというと、私の生活の中で珍しく腹のたつことが出てきたからです。これをどう考えるか。
 詳しく書く気持ちはありません。私は一般的な話として怒りの本質について書きたいだけであって、個人の問題を云々したいわけではないのです。「それはひどいじゃないか」ということが出てきた。自分にはほとんど落ち度がないようにも見えます。これはもちろん当事者だからそう感じるだけかもしれません。自分が自由にどうこうできる話ではなかった。
 
 自分に落ち度がほとんどないひどい話は、どこかほかに原因があるということになります。すると個人の感情としてはその原因部分に鉄槌を下したい・・・とまではいかなくても、それ相応のペナルティーを科してもらいたいという気持ちになることもある。たとえば多くの人間が被害を受けた。その原因を作った人なり組織なりは当然謝らなければいけないでしょうし、相応の罰は避けられないでしょう。
 ところがいまの日本全体を見てみても、責任をとらないですませようとする傾向がありますね。原発の事故でさえちょっと甘い感じがします。
 
 ただーー私はそうあるべきだと個人的に考えているのですがーー晩年(?)の自分はあくまでも慈悲の人間でありたいという意志を持っています。以前も書いたように何かあったときここ数年は「ブッダならどうするだろう」とまず考えるように自分を律しています。そうしないと私程度の人間は、いくつになっても未熟な部分が露呈してしまう。ですから、象徴のようなものを用意しておくことで未熟であることを戒めたいのです。10代のころの象徴はアリス・クーパーだったりミック・ジャガーだったりしましたが、いまはブッダとか老子とかですかね。
 
 するとどうでもいいと言えばどうでもいいという感じもしてきます。ひどいことというのは、具体的な形です。感覚は形というよりは全体の色です。世の中は形と色とで成り立っている。
 ここにケーキがあった。あとで家族で食べようと思っていた。それを誰かが食べてしまった。ひどいじゃないかということにはなるでしょうが、家長の私が騒いだら色そのものが汚くなる。ここは「ケーキならまた買える。人さまにご馳走できたことを喜ぼうじゃないか」ぐらいに形としての怒りをきれいな色に溶かしこむのが慈悲の人の務めではないか。
 
 これを食べた奴は誰だよ、死んじゃえばいいのに・・・みたいなのは生きかたとして選択しない。そう、すべてが選択です。正しいか正しくないかということ以前に、どの色で主張するかという選択が(とくに指導する立場の人間には)大切であるように思います。
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.12.06 03:05

 先日、少しだけ時間があったので気になっている場所を歩いてみました。子どものころ、私はそのあたりで迷子になったことがあるのです。幼かったので、これはもう母親に2度と会えないのではないかと思い、泣き出しそうになりました。そんなところで泣いてもどうにもならないですからね。あとはもう気が狂ったみたいにでたらめに走り回っていたら偶然知っている場所に出た。
 変な思い出なのですが、そのあたりに行ってみました。寺社があるせいか、周囲はあまり変化していませんでした。
 
 見てどうなるというものでもないですけどね。
 遠い昔の記憶があるところに出かけていったら、何が何だかわからないほど開発されてしまっていたということもありました。西武線沿線のある駅、商店街の先に大きな幹線道路が走っていました。幹線道路をしばらく歩いたところに洋服屋さんがあった。遠い昔といっても30年ちょっと前です。幼いころではない。
 ところが行ってみたら商店街がない。街全体が大きく変貌してしまって、幹線道路に向かう細い通りが見つからず駅前で戦意喪失、帰ってしまったことがありました。
 
 このあたりにお店があったはずなのだが・・・ということもあります。手がかりぐらいは残っているはずだとも思うものの、見当もつかない。小さなビルが新築されずに並んでいる地帯なので、そのどこかで経営されていたはずなのです。食べ物屋さんであったり貸ビデオ屋さんであったり。ところが現在はお店がまったくないので、どこのことなのかわからない。
 でたらめに歩いているうちに(あ、この光景は見たことがある!)という瞬間が出てきました。ということは・・・確かにこのあたりだったのでしょう。
 
 学生時代それほど親しくない方がある病院に入院されていて、何かの流れで自分も友人とお見舞いに行ったことがありました。そのとき、やはりお見舞いにいらしていた入院されている方の友だちのおばさん(当時60代ではないかと感じました)が住んでいらっしゃるマンションが病院の近くにあった。私たちは病院を出てそのマンションの前で散会しました。
 それがどこだったのかということが何十年もたってから変に気になってうろうろしたときがあるのですが、どうしてもわかりませんでした。マンションはいくつもあるのですが、どれも違うような気がする。
 
 変なお話だと思います。ただ私はそういう人間であり、こんな真夜中に突然目覚めてそうした事実を表明したいという気持ちになるのです。こういったことはやはり小説みたいにーーフィクションという形で表現したほうがいいのかもしれませんね。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.12.04 10:03

 何かうまくいかないことがあったとしますね。たとえば料理ーーチャーハンならチャーハンを作った。ところがおいしくなかった。どう考えますか?
 1つの考え方としてベストのチャーハンが作れないぐらいなら、もう一切チャーハンは作らないという発想はあるでしょう。それで生計をたてているというわけでもない。こんなぶざまなまずいものを作るぐらいなら、潔く(?)すぱっと手を引こうという考え方です。
 確かにチャーハン程度であればそういうことも可能でしょう。
 
 しかし、勉強や仕事や交友や家庭や大切な趣味ということになってくると、そういうわけにもいかないかもしれません。潔くすぱっと捨てるわけにはいかない。そのときどう考えたらいいのか。
 ベストでなければ意味がないという考え方がそもそも少しおかしいのです。私たちは確かにベストのものを探し求めますね。いちばんいい生き方がしたい。いちばんいい勉強や仕事がしたい。しかしいきなりはむりなのです。いちばんということがわかる過程では、いちばんでないものも大量に経験しなければなりません。要するに、現時点より少しだけでもよい状態にもっていけばそれでいいということです。
 
 ベストな生き方ができなくても、少しだけましな生き方は可能なはずです。少しだけ改善することはできますね。少しだけおいしいチャーハンをーー火加減なり具材なり味つけなりを工夫してーー作ることはできるでしょう。そう心がけることはできるはずです。ベストではなくても進歩する。成長する。
 じつはそこに人生の秘密がある。よりよく生きることができるということこそが、私たちが持つ本当の財産なのですよ。私たちの本当の財産は、よりよく生きられることです。よく後悔はないという表現がありますが、現状をよりよく改変していこうという姿勢の中には確かに後悔の要素が少ないでしょう。
 
 現在が悪い状態であるのは事実かもしれません。だからこそ改変する。悪い状態が改変の機運をもたらしてくれたのであれば、むしろそのことに感謝してもいいぐらいです。
 お金を浪費してしまった。ではここから有意義に使ってください。知人に冷たくしてしまった。ではここからどなたにも優しくなさってください。無茶をして体調をすっかり崩してしまった。ではここからお身体を大切になさってみてください。
 ここまでベストではなかったかもしれませんが、ここからよりよい生き方を選択することはできます。
 
 日々をよりよく生きる作戦こそが、私たちの人生を前進させる知恵であると思います。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

プロフィール

プロフィール画像
長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

カレンダー

<<   2017年12月   >>
          01 02
03 04 05 06 07 08 09
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

新着記事

月別アーカイブ