2018.10.22 08:12

 教室で何かしら催しがあるときは、だいたい10時からスタートすることになっています。催しというのは、説明会や保護者会などですね。10時半からということもありますが(来月10日の自分の公開授業は10:30~にしました)、会場となる教室を大学受験部にお借りしていることが多く、なるべく12時には撤退したい気持ちがあります。
 自宅から教室までは45分なので、何かあったときのためにだいたい倍の時間を見て出ています。
 
 つまり8時半には自宅を出るということですね。いままで山手線の事故、中央線の事故、私自身の不調・・・といくつかアクシデントがありましたが、この時刻に出ていたのですべて何とかなりました。遅刻したことは1度もありませんから、これからもこの時刻には自宅を出るつもりでいます。
 催しのある日は土曜日曜が圧倒的に多いですね。平日の朝では基本的に皆さんお仕事なので、いらしていただくことができません。
 
 土日の中央線快速東京行きは荻窪を出ると中野と新宿にしか止まりません。平日のように阿佐ヶ谷駅、高円寺駅には止まらない。便利なので、いつものように総武線を使わず中央線の快速電車に乗ることが圧倒的に多い。
 新宿駅にはだいたい9時前に着きます。すると向かいのホームに9時8分発の「新宿さざなみ」という特急列車が停まっています。館山行き。この列車は平日は走っていないのです。土日に限定して走っている。
 
 ときどき館山(那古船形)のことは記事に書いてきました。高校時代、思い出がある。館山という電光掲示板の文字を見るたびにふとよぎるものがあります。まず海を、次に真夏の太陽を思い出す。ああ、あんな日があったなと・・・自身の未熟さ(若さと表現するのはちょっと恥ずかしい)と共によみがえってくるのです。
 後悔に近い感情が脳裏をよぎるのですが、厳密に言えば後悔ではなくある種の感傷ですね。あの日々をつかみきれたのだろうかという疑問がないわけではない。
 
 新宿さざなみを見るたびに次の休みのときにでもなどと思うのですが、現実問題として土日の休みというのはほとんどなく、なかなか乗る機会を持てません。8年前のゴールデンウイークに1度だけ乗っていますが、あの日は前日むりをしたのでじつは非常に調子が悪かった。
 行くには行ったけれどもふらふらで・・・という感じでした。またどこかであと1度ぐらいは9:08発の新宿さざなみに乗ってみようと考えています。
 
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2018.10.21 01:26

 少し先の楽しみというのは、現在に属している部分もありますね。たとえば来週の土曜日コンサートに行くとします。楽しみでしょう。来週の土曜日が楽しいのはもちろんですが、いまこの瞬間も楽しい。わくわくする。
 そうした意味で「旅行は計画をたてたところからスタートしている」という言い方もされますね。計画をたてる瞬間からどんどん楽しみが増していくという意味です。地に足のついた生活は大切ですが、近い将来の楽しみは生きていくうえでの活力になります。
 
 それがまったくないという人がいるとしたら、ちょっと気の毒な感じがしますよ。工夫次第で手に入れられますから、気が向いた方はちょっと試してみてください。
 まずは好きなものを紙に列挙してみてください。どのジャンルで? すべてのジャンルです。たとえぱこんな感じで。愛犬、だれそれの音楽、いつもチェックしているタレントさん、愛読書、チョコレート、テレビ番組、特急列車、オシャレ、タマゴ焼き、隣のクラスの何々くん、サッカー、ボードゲーム、映画・・・
 
 とにかく好きなものを列挙する。
 つぎは少しでも憧れる対象(こちらはだいたい人間ということになると思います)を列挙してみてください。尊敬できる方でもけっこうです。
 個人名でも職業名でもいいと思います。映画俳優、天文学者、飲食店の経営者、作家、先生、野球選手・・・むりに増やさなくていいですよ。とにかく憧れるものがあったら書いておいてください。
 本当にご自身のお好きなものだけを書く。
 
 そうしたらそれらの材料でいますぐできることがないか、考えましょう。たとえばタマゴ焼きであればすぐにでも作ってもらえそうです。場合によっては、次の休みにあなたご自身が研究しながら「究極のタマゴ焼き」を作ってみたらいいのではないですか。大好きなタマゴ焼きだけでなく、料理するという新しい視点がもたらされました。何かしら楽しみが拡張されてきますね。
 特急列車であれば、日帰りでも乗れます。以前は日帰りは考えなかったかもしれません。これまた新しい視点だと思います。
 
 さらに作家になりたいのであれば、列車に乗った感想を書いてみたらいいと思います。窓から見た景色、列車の内部の様子、他のお客さんはどうであったか・・・いきなり活字にならなくてもいいではないですか。訓練のつもりで書いてください。なかなかうまくいかなくて何度も何度も書き直したくなるでしょうが、そのこと自体あなたにとっては至福の作業になるでしょう。
 そうやって好きなこと、やってみたいことをふくらませていくのです。好きなものを組み合わせて遊んでみる気持ちが大切ですね。
 
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2018.10.20 00:37

 これまであまりそのときどきに起きた社会的な事件を話題にしてこなかったのですが、それはまた私自身が世の中の出来事にあまり興味がないからでもあります。世界情勢なども新聞で見かける程度のことは理解しているものの、わが国はこうあるべきだ的な熱い意見は持っていません。
 そういう議論自体を青年期からあまり好まなかった。性格的なものでしょうから、まあ仕方がないですね。
 
 ただ今回の五反田の土地にまつわる詐欺事件には少しだけ興味が湧きました。というのも、私自身が昔からあの旅館を不思議だと思って何度か周囲を観察(?)したりしてきたからです。はじめて認識したのは1990年前後だと思うのですが、当時はまだ営業されていた可能性がありました。灯りがついていた記憶があるのです。
 とにかく古い感じで独特の雰囲気がありました。五反田の目黒川沿いは当時からいろいろと興味深い建物が存在していました。
 
 昭和のころですが、テレビである大物タレントが「五反田には東京のすべてがある」と発言されていたことがあり、深い興味を持つようになりました。下町と山の手の接点だというのです。ものすごく上品なものから真逆のものまで、東京にあるものは何でも揃っている。そんな説明だったと思います。
 もともと少年期に五反田に友人がいて知らない街ではなかったのですが、それからは意識的に五反田で飲んだりするようになりました。
 
 今世紀の頭まで24時間営業している飲み屋さんが駅のすぐ近くにあり、なるほどこれは奥が深いなと思ったものです。その24時間営業の飲み屋さんが夜逃げに近い形でいなくなってしまったという話もこれまたいまはなくなってしまった高架下の飲み屋さんで聞きました。
 駅前に屋台がたくさん出ていたころは屋台のご主人と親しくなったときもありました。その後、屋台は規制され街全体があたりまえの盛り場に発展してきました。
 
 と同時に興味は少し薄れてしまいました。駅前に個人経営の洋品屋さんがあったり雑居ビルのなかに将棋道場があったりしたころは面白かったのですが、ぜんぶきれいな普通のビルになってしまいましたからね。
 駅前に「イルモンド」という靴屋さんがあった。エンゲルベルト・フンパーディンクの歌のタイトルと一緒だったのですぐに覚えた。とっくになくなってしまいましたが、地図を見るといまでも「イルモンドビル」と記載されたビルは残っています。
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2018.10.19 08:50

 先週の新聞に、ビリギャル(という感じで呼ばれている方は複数いらっしゃいますか?)的な存在だった女性のインタビュー記事が掲載されていました。中学高校時代最低の成績だったのに、大学はすごいところに合格された。
 本当にできなかったとおっしゃっていました。偏差値30台の世界ですね。それが最後は70台まで上がっていった。
 しかしビリギャルという刺激的なネーミングのせいで、うっかり見落とされてしまいそうな要素もありました。
 
 イメージとして、劣等生が一夜にして優等生というスターになったみたいな印象を与えてしまいますが、ご本人は本当に努力したといいます。本当の努力というのは、あなたならどれぐらいのものを想像しますか?
 学校で集中して勉強する、さらに自分で参考書や問題集を勉強する、通信添削を利用する、塾に通う・・・いろいろなレベルがあるでしょうが、その方の場合何と「1日に15時間勉強した」と書かれていました。
 
 いいですか。15時間ですよ。15時間も勉強した。仮に学校に7時間滞在する(ただ学校では勉強だけしているわけではありません)として、帰ってきてから毎日8時間勉強している人がどれだけいらっしゃるでしょう。睡眠時間を6時間確保したらもうほとんど何もできないですよ。
 要するに生活をほとんど勉強にあてたということです。そんなにやっていれば「ビリギャル」という呼称があろうがなかろうが、成績は必ず上がっていくはずです。じつは不思議でも劇的でも何でもない話なのです。
 
 もう1度繰り返します。勉強はあくまでも作業であり、作業を1日のうちに15時間やればどなたでも必ずできるようになる。ビリギャルさんとまったく同じように上がっていかないのは、毎日15時間はやっていないだけであってそれ以上でもそれ以下でもないですね(私は、全員がそうあるべきだと言っているわけではないですよ)。
 昔、医学部に進んだある生徒から、受験前の半年ぐらいは食事しているあいだもずーっと受験関係の本を見ていたので、純粋な食事時間がなかったという話を聞いたことがあります。
 
 簡潔に書けばものすごい「努力の人」にすぎません。ただそれだと世間的にウケない。だからいろいろ刺激的なタイトルをつけるわけですが、本質の部分は見損なわないようにしないといけませんね。
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2018.10.18 01:09

 内申がどうしてもとれないという生徒がいます。まあ、そのあたりは仕方がない部分もあるのかもしれません。私は私立中学に通っていましたが、もし自分が公立中学に通っていたら内申は全然とれなかっただろうと思います。
 たとえば私は授業中絶対に手をあげなかったでしょう。提出物は怒られると面倒臭いので提出することはするでしょうが、適当に何かを丸写しして出すだけだと思います。しかも丁寧にはやらない自信まであります。
 
 先生に好かれるための努力もしないでしょうし、つまらない授業では寝る可能性もあります。反抗してそうするのではなく、私の生き方の中に「人さまに認めてもらう」のが極端に恥ずかしいという気持ちがあるのです。
 困ったことではありますが、こういうのはどこから来たのかと考えるとけっこう複雑な由来があるような気がしないでもありません。
 つまり幼少期に自分は褒められ慣れていないのですよ。
 
 何かがうまくいったときに褒められていない。できてあたりまえだとさらりと流され、できなかったときは厳しく叱責されました。
 私は考えるのですが、子どもの収入というのはおおむねごくごく近くにいる大人たちのーー多くはご両親のーー褒め言葉だけなのです。彼らにとってはそれだけが唯一の収入なのです。褒められれば豊かになりますし、まったく褒められなければ働いても働いても無収入な貧乏人みたいなもので、何かしらバランスが崩れる部分が出てくると思います。
 
 はたして少年期の私は、他人に褒められると非常に不安定になりました。褒められ上手ではないからですね。ウソをつきやがってと好戦的になる。あるいはおれを騙す目的でいいことを言っているに違いないなどと邪推する。はてはここでうれしそうな顔をしたら負けだとばかみたいなことを考えて、自分のことを認めてくださった大人を一方的に拒否したりしました。
 両親は私に大きな期待をかけていたと思いますし、私はその期待を裏切ってばかりいたとも思いますが、悲劇の出発点はそんなところでしたね。
 
 少しでも何かしらいいことがあったときは心の豊かさを与えるために、彼らを褒めるべきだと思います。漢字テストで満点の子がいる。それはたいしたものです。ただ先週30点だった子が50点をとったのであれば、それもまた褒めるべきでしょう。まだまだだめだなどというのはあまりにも残酷ではないですか? 褒められ上手な生徒を作れないのであれば、先生として失格だと考えています。ただこうしたことに気づけたのは歳をとってからで、若いころの指導には悔いが残ります。
 
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2018.10.17 04:30

 いまは行かないのですが、以前頻繁に歩いていた道があります。直角の曲がり角があり、内側が駐車場になっていました。駐車場といっても小さなビルに付随したもので、せいぜい3台か4台しか停められないのではないでしょうか。ずっと見ていないのでよく覚えていませんが、とにかく小さいイメージがありました。
 とは言っても、駐車場に常に車が止まっているわけではありません。すべて出払っているときもある。
 
 するとどうなりますかね。自然と歩行者は道路を直角に曲がるよりは駐車場内を横切る感じになります。そちらのほうがほんの少しだけ近い。三角形と同じ理屈です。
 私もまた深い考えなしに横切っていました。その駐車場だけではありません。そういう場所では本能的に最短距離を歩こうとする傾向がありました。
 ある日、駐車場に紙が貼られていました。
 
 細かい部分は忘れてしまったのですが、かなり怒った感じの手書きの文章で「他人の土地を無断で横切るな!」と書かれていました。セリフは違うかもしれませんが、怒っている感じはこんなものでした。
 いろいろ考えましたよ。そんなに怒らなくてもいいじゃないかという感想を持ちました。またいやなら囲っておけばいいのにとも考えました。
 しかし、やはりこれは横切る人間が悪いですね。悪いというのは、法律としてどうこうというよりは無意識な行動をとることが悪いという意味です。
 
 人さまの土地を横切って当然だとしか感じない神経とでもいうのでしょうか。そういう無神経さは自分の美学から考えると下品ではないかと思うわけです。比喩的な意味でも、近道ならどこを歩いてもいいという感性で生きるつもりなのか?
 それからはどういうところでも道路でない部分を斜めに横切ることはやめました。商業施設でもそうです。買い物をしないときは広大な駐輪駐車スペースには入らず、道路を直角に曲がっています。
 
 こうしたことは生活全般に関係してきますね。繊細さは、名曲を聴いたり難しい文学作品を鑑賞したりしなくても注意深く日常を生きれば自ずから涵養されていくものではないでしょうか。ただ私は家内や息子にもこうしたことは一切強制しません。他者に強制しないということもまた大切な繊細さではないかと思っています。
 大げさに書けば、私は「他者の土地を横切らない」人間として生徒に接しています。彼らからの敬意の一端は、じつはそういう部分からきています。いちいち公開しなくても、伝わるものがあるということですね。
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2018.10.15 08:09

 これまでもカキフライについては何度も記事にしてきました。好きなのですよ、カキフライ。とんかつや鳥の唐揚げなんかより好物かもしれません。
 先日も偶然入った北区のとんかつ屋さんでカキフライ定食を食べました。すごくおおぶりなカキだったのでちょっとびっくりしたのですが、そのお店では女性の店員さんがこちらがソースになりますと瓶詰めの辛味のきいたソースを持ってきてくれました。それをかけて食べてくださいということですね。
 
 カキフライにソースをかけることはいやではないのですが、比較的多くのお店でタルタルソースがついてくるのでちょっと意外な感じはしました。タルタルソースはいろいろありますが、あんまり凝った味だとかえっておいしくない。あっさりしたもののほうがカキの味が引き立つように思います。
 定食屋さんで擬似タルタルソースを自分で作るお店があります。これまた以前記事に書きました。きざんである具材とマヨネーズを自分で混ぜる。
 
 なかなかの発想だと思いましたよ。ときどきあのタルタルソースそのものが食べたくなって、その定食屋さんに行くことがあるぐらいです。混ぜていく過程が楽しいということもありますね。シンプルな具材なのですが、市販されている複雑なタルタルソースより何となくおいしい。
 教室の近くではいつも2つのお店でカキフライを頼むのですが、片方のお店はタルタルソースが少量しかつきません。すべてのフライには行き渡らない。
 
 ということは・・・いくつかは卓上のソースで食べなさいということなのだろうと考えて、1つか2つはとんかつソースで食べています。目先が変わっておいしいですよ。
 カキフライをからし醤油で食べるというのはあるマンガで発見しました。なるほどありだなと思ってやってみたらこれもまたおいしい。
 私は揚げ物はあまりアルコール類のおつまみにしないのですが、アルコール類と一緒であればからし醤油がいちばん合うのではないかという気がします。
 
 カキフライをケチャップや八丁味噌でも食べてみようかなと考えています。はじめは違和感があるでしょうが、慣れてくると案外おいしいのではないか。醤油が大丈夫ということは、そばつゆなんかだとどうなのだろう。小さいもので試してみようと思います。
 
 
 
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2018.10.14 01:34

 中学生のとき、洋楽に興味を持ちました。小学生のときもいたずらでFEN放送を聴いたりしたことはありました。なぜ英語の放送が流れてくるのか不思議でしたよ。あるときすごくいい曲だなと感じた曲があり、いま思えばおそらくカスケーズの「悲しき雨音」だったような気がします。
 当時は日本のいわゆるグループ・サウンズというのが全盛期で、私はそちらに興味を持っていました。女の子とどのグループが好きかという話をさかんにしました。野球やサッカーより私には楽しかったですね。
 
 それが中学生になって洋楽を聴きはじめると、日本のポップスはあちらの真似みたいな感じがして、海外のものばかり聴くようになりました。
 テレビでは洋楽番組がほとんどなかったので、やっぱりラジオですね。とくに深夜のラジオでポップスやロックを聴いた。全然違う世界だという感じがしました。それまでの秩序や常識とはまったく違う何かを感じた。反体制とか反戦とかさかんに言われていた時期で、とにかく新鮮なものを感じたのです。
 
 ビートルズやローリング・ストーンズを「はじめて聴いた日」というのが私にもあるはずなのですが、まったく覚えていません。ビートルズの曲は、日本のバンドが演奏していたものを知ってはいました。あらためて原曲はこうだったのか・・・という感じで聴いた。
 ただオリジナルの前にカバー曲を聴いてしまったのは、ちょっと失敗でした。微妙に違うと原曲のほうが間違っているような錯覚を抱いてしまう。
 
 アメリカのバンドとイギリスのバンドでは全然音が違うのですが、はじめはわかりませんでした。クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのサウンドが泥臭いという記事を読んでも、泥臭いというのがどういう概念なのかわからない。南部の音と書かれていてもやはりわからない。
 うるさい音という意味ではイギリスのバンドだってアメリカのバンドだってカナダのバンドだってみんなうるさい。何が違うのだろうと思いました。 
 
 そういう状態だったのですが、とにかく毎日毎日いろいろな曲を聴くことでだんだんわかってきました。ポップスやロックを聴かない日というのは、中学2年の終わりから数年間は1日もなかったのではないかと思います。わかるまでには相当の経験が必要でした。結局勉強でも何でも同じだと思いますが、真剣に取り組んで量の積み重ねが質の変化をもたらすまでひたすら待つしかないのです。
 手っ取り早くとか効率よくという発想そのものが、よくないということです。対象とずーっとつきあおうという覚悟が欠けているからです。
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2018.10.13 05:54

 どなたもそうだと思いますが、幼児期、両親の期待にこたえようとしますね。両親が喜ぶとこちらもうれしい。ですから彼らがだめだということはしない。褒めてもらえることは積極的にする。
 私もそうでした。ただ微妙なずれが生じてくることがあります。たとえば自分は赤が似合うと言われて赤い服を着せられたりしました。しかし、私はそれが恥ずかしかった。
 
 子ども心に赤い服というのは女の人が着るものではないかという・・・どうしてそう考えるようになったのかはわかりませんが、偏見のようなものがあった。あるいは赤い服を着ているときに仲間から笑われたりしたのかもしれません。とにかく赤い服だけはごめんだという気持ちが芽生えた。
 すると赤が似合うとか赤いマフラーをしなさいという親の指示に逆らうことになります。そのことを「期待にこたえられなくて」すまなく思う変な感覚は何となく覚えています。
 
 それがだんだん赤い服どころではなくなってきた。赤い服が似合うか似合わないか程度の価値観の違いであればどうということもないのですが、どう生きるかという価値観の違いが生じてきました。難しい問題なのですが、当時私が憧れる人間(ある意味で職種)に対して、両親は片っ端から否定的な見解を述べました。
 あんなのは地に足がついた生活ではない。ああいう軽薄な生活を続けて食っていけると思っているのか。華やかに見えるのは表面だけだ。ああした職種に憧れること自体、堕落している証拠だ。
 
 私は私が惹かれるものと両親がよいと考えるものとのあいだで葛藤するようになりました。そして、次第に「あんなものはだめだ」とよく知りもしないのに一方的に決めつける両親に強い反発を感じるようになりました。
 子ども時代特有の美的観念というものがありますね。崩れやすいものだとかちょっと醜悪(?)なものに惹かれる。あるいはとりわけ弱々しいものに憧れたり、実体のないきらきらしたものに飛びつきたくなったりする。
 
 そうした感性を全否定されると非常に腹立たしかった。私が子どものころ、近くの新大久保駅のホームで金魚を飼っていました。どういう仕組みになっていたのかよく思い出せないのですが、とにかく生きた金魚がなぜか見えにくい場所でひっそり泳いでいた。
 両親に強く叱責された晩など、私はその金魚のことをよく思い出しました。彼らもまた夜中にふと目を覚ますことがあるのだろうか? そしてまた、大人はこういうことをまったく考えないからだめだとも思いました。それこそが本当の堕落だと。
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2018.10.12 02:08

 先日、ある卒業生が遊びに来てくださいました。きわめて優秀な生徒で、いわゆる都立のトップ高校に合格しそこでも最上位の成績をとっているという話を私は聞いていました。以前いらしてくださったときは私はたまたま休みだったので会うことができなかった。残念だと思っていたのですが、また来てくださったので話すことができました。
 彼は合格体験記に私のことを書いてくださったりしているので私個人としてはーーそれはそういうものだと思いますーーとりわけ親近感を抱いています。
 
 何ということもなく話をした。どういう方向に進みたいのかということを訊ねたところ、まだ明確には決まっていないとおっしゃっていました。そうでしょうね。ただ宇宙だとか天文学だとかには興味を持っていて・・・理系に進みたい気持ちはあるというような話が出ました。
 そのとき彼はボイジャーのことをふと話題にしました。宇宙船ですね。私はそのあたりほとんど知らないのですが、名前ぐらいは聞いているのでああそういうのがいたな程度には答えた。
 
 太陽系を出ていったのですと彼は言った。太陽系から出ていくというのはすごい話ですね。聞いてみると1970年代の終わりごろに打ち上げられたというではないですか。ときどき話題になっていることだけは認識していましたが、そんなに昔なのかと改めて思いましたよ。と同時に、私はその宇宙船の孤独を思いました。
 40年間、真っ暗な宇宙をひたすら飛んでいるわけですね。どれだけ孤独なんだよという気持ちがしませんか。
 
 で、すぐに詩になるなという話をした。宇宙船の孤独の詩ができると。それはまたじつは人間の孤独さの比喩にもつながるだろうという話をしました。私には太陽系を出ていく宇宙船に対して理系的な興奮(?)はほとんどありません。ただただ彼の孤独を思うだけで、そこはやはり文学的な感傷なのだろうと思います。
 彼が人それぞれ感じ方が違いますねとおっしゃっていたので、何となくいい会話ができたなと思いました。
 
 この瞬間も宇宙船は飛んでいるわけですね。彼からその話を聞いてから、私はずっとそのことを考えています。どれだけの孤独か。どれだけの孤独か。どれだけの孤独か。
 自分が1970年代の終わりに何をしていたのかということも思い出します。あれからずーっと暗い宇宙を漂っている。どれだけの孤独か。そんなことを思うことが自分の使命なのだろうという気持ちがあります。せめて表現することですね。どれだけの孤独か。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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