2018.12.11 02:34

 今日は予定を変更して、休みの形でちょっとだけ教室に行こうと考えています。面談とか会議とかがあり、完全に休むのはちょっと難しいのです。じつは昨晩、父が他界しました。夜の9時すぎで、私は教室で仕事をしていました。そこに連絡が来た。
 もっとも授業ではなく、面談なんかですね。保護者の方ともお話しましたし生徒とも話しました。電話でも話し、直接対面しても話しました。私と話したいという連絡をいただく。そのお気持ちは私にはよくわかります。
 
 私と話せば安心できるし自信がつくからです。私は自分がしていることを周囲に宣伝しません。それこそ生まれてからずーっとそうです。私個人は手ごたえを感じていても、他者から問われれば、自分はいつも何もしていないし遊んでいるようなものですと答えてきました。もちろん、今後もそうするつもりです。
 ただ私と話したいというリクエストはつねに切迫したものなので、私はそうした求めにはいつでも応じるつもりです。
 
 先週の木曜日に施設に見舞ったのが、最期の別れになりました。父は私の手を固く握って泣いていました。私には彼の複合的な思いがよくわかりました。言葉にしないからこそわかるということが世の中にはたくさんあります。言葉にするからわからなくなるという変なことも、またたくさんあります。
 私は彼の手を握り返しながら、やはり言葉にはせず冷静にあることを伝えました。これは彼と私だけの無言の対話であり、内容を明かさないのが礼儀だと思っています。
 
 私はそのとき、これでお別れだという気持ちを抱きました。彼は四捨五入すればもう100歳です。普通に考えて天寿をまっとうしたことになるでしょう。
 父はいわゆる危篤状態でも妹のまえでふざけて「死んだふり」をしたりしていたそうです。昨日もした。おといもした。そのあたりは私に似ていますね。私もおそらくそんなことをしながら死んでいくでしょう。
 私自身は死についてはきわめて前向きな感覚を持っています。死生観というのは、人それぞれですからね。
 
 昨日、私は仕事のまえに自分のクリニックに行っていました。歯医者と内科と2つ行った。忙しいので、そうやっていろいろ工夫しているのです。内科のクリニックはじつは父のいる施設から20分ぐらいのところにありました。しかし、施設に寄っていると仕事に遅刻してしまう可能性があるので寄りませんでした。寄れば最後にもう1度会えるのは確実ですが、寄らなくていいという気持ちもした。別れほど美しい光景はありません。あの無言の会話で終わりにするのがベストだと考えたのです。
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2018.12.10 07:54

 何のために勉強するのかわからないという質問が出てくることがあります。勉強に限らず「何のために」と考えること自体はとても有意義なことだと思います。そうした問いは突きつめていくと、要するに「何のために生きるのか」という問題につながってきますね。これはもうりっぱな哲学的命題であり、無数に答があるとも言えますし、これだ! という正解はないとも言えます。
 非常に高尚な問いかけですね。
 
 自分が受験生のころ、高校のある先生が「ここまできていまさら何のために勉強を・・・なんて青臭いことを言っているやつは、おちこぼれて浪人するから気をつけろ」とおっしゃっていて、クラス全体がわっとわいたことがありました。それこそホンモノのおちこぼれでキルケゴールと太宰治(とミュージック・ライフ誌)しか興味がなく友人も極端に乏しかった私は、周囲のみんなと住む世界がまるきり違うのだから早く手を切りたいものだと心底感じました。
 何のために? という問いかけなしに行動するのはある意味でこわいことだとも思います。
 
 何のために? という問いかけをさせないように仕向ける勢力がどこかに隠れている可能性もあるかもしれない。たとえば戦時下。
 国家のためということになるのでしょうが、お互いの兵士たちは国家のさらに何のためなのかいまひとつ納得できないままにひたすら戦闘しているという可能性も十分に考えられます。
 それこそ1人1人が「何のため?」と自問自答していけば、世の中は確実に進化していくでしょうが、そうした進化を望まない支配者層もいるような気がします。
 
 衆愚状態みたいなほうが得であるという考え方が存在しているのでしょう。ただ、いまはそのことには触れないでおきます。
 何のため? の問いかけで、正しいかどうかは別にして円滑に物事が進行していくひとつの回答は「単純に楽しいから」というものではないでしょうか。何のために勉強する? 楽しいから。何のために生きる? 楽しいから。何のために愛する? 楽しいから。何のために走る? 楽しいから。
 
 究極的には正解ではないかもしれません。楽しければ何をしてもいいのかというようなことにもなりかねないからです。ただやるべきことに関しては喜びを感じて実行したほうが、いやいややるよりは確実にうまくいくでしょう。
 生が祝祭であるというのは、何かの回答というより定義に近いものだと思います。そうした定義にもとづいて生きている人の全行為はやはり祝祭となるはずで、楽しもうという意志を持って取り組む姿勢は大切だと思います。すべてを楽しんでくださいよ。苦しむのでなく。
 
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2018.12.09 06:47

 どういうタイトルだろうと自分でも呆れますが・・・最近自分はつねにきちんとした所作を心がけたいと考えています。たとえば食事どきなどですね。自宅ではいい加減ですが、外ではなるべく気をつける。
 ときどき食事の所作の美しい人ーーやはり女性に多いのかなーーを見かけてほれぼれすることがあります。きれいに食べるもんだなあ! という感じですね。所作美人というのは、本当に素敵だと思います。
 
 育ちであるとかしつけであるとか心がけだとかが蓄積されてそうなるのでしょう。所作美人には特別なお金持ちというわけではない方もたくさんいらっしゃるので、生活水準とはまた違った要素があるのだと思います。逆にお金持ちでもあまりきれいな食べ方をしない方もいらっしゃいますね。私は飲み屋さんにしか行きませんが、正統派の居酒屋なんかではかなり地位の高そうな方でも、全員が全員きれいに召し上がっているわけではありません。
 
 以前下北沢のちょっとだけ高めのお店で、女性と一緒にいた高級なスーツを着た中年の男性が焼魚を乱暴に箸でつかもうとしてまるまる床に落としてしまったことがありました。「落ちちゃったのでもう1つね!」と大きな声でご主人に注文したのですが、ご主人は顔をむらむらと赤くして返事さえされませんでした。温厚なご主人なのですが、相当腹がたったのではないかと思います。
 所作は、手っ取り早くお金で買えない要素もあるということなのでしょう。食べ方、話し方、歩き方、すべて買えないと言えば買えない。
 
 仕事の日、私は1度は外食しています。お弁当を買ってくる日もないではないのですが、基本的には気分転換も兼ねて表で食べます。そのときどこでも所作をきれいにとは意識します。食事中も箸をなるべく汚さないようにということを考える。どうしても汚れますね。食材が貼りついたりする。それを意識的に落としながら食べ進めていく。口に含む量も多すぎないように気をつけています。
 いろいろ苦心しているのですが、最近食べているとなぜか鼻水が出てくるので困ります。
 
 何を食べていても鼻が出る。そのまま我慢しているとたれてきますからね。鼻をたらしながら食べていては所作も何もあったものではないですから、途中で箸を置いて鼻をかみます。あまりきれいな図ではないですね。アルコール類を飲みながらだと鼻は出ないのに食事だけだと出てくるのはどうしてなのだろう。昔はこうではありませんでした。老化現象ですかね。困ったものです。
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2018.12.08 09:21

 例年より仕事が大変だと感じていたところ、私生活までばたばたしてきました。落ち着いて生活することがちょっと難しい。ただ落ち着かないときは落ち着かない状況が「正しい」わけですから、無理やり落ち着こうなどと考えないほうがいいのです。ありのままの状態を受け入れて生きることが大切でしょう。
 少年期の自分は「自死」ということに非常にこだわりを持っていました。当時自分が好きだった作家がほとんど自死だったという事情もあったと思います。
 
 心中というものにも漠然と憧れました。私の場合、相手がいなかったので具体的に心中の計画を練ったことはありませんが、衝動的に自殺を考えたことは何度かありました。絶望というよりは、ある種の憤慨に近かった。憤慨して「死んでやろうじゃないか!」となった。あとに残された人間におおいに後悔してもらおうじゃないか! うんと罪悪感を持ってもらおうじゃないか! ・・・というめちゃくちゃな腹立ちみたいなものが衝動の中核を形成していたように思います。
 仮に実行していれば、当然遺書も激昂したものになったでしょう。
 
 衝動というのは、魅力のあるエネルギーの発露だとは思います。ふだんできないこともできてしまう。衝動以外にそんなエネルギーは人間にはないでしょう。衝動だったからこそ可能だったということはたくさんある気がします。恋愛なんかでも、衝動的にはじまったからこそ成就したなどという例はたくさんあるのではないでしょうか。
 ただやはり間違えるケースも非常に多いですね。衝動的な行動全般に言えることですが、夜何かとてつもないことを思いついたとしてもせめて翌朝までは待ったほうがいい。
 
 とくにどなたかに文句を言おうなどという場合はそうです。翌朝も言いたければ言えばいいのですが、ひと晩は寝かせたほうがいいと思います。仮に同じ「言う」にしてもよりよい文句を言えるはずです。
 生き方の美学というものは成長とともに変わっていくのが本当ですから、こうあるべきだと決めつけすぎないほうがいいのです。過去のご自身に現在未来のご自身が縛られるというのは、つまらないことだと思います。
 
 同じように、夜のご自身に翌朝のご自身が縛られる必要はまったくない。じつは遠方にいる友人から真夜中自死の相談を受けました。つらい諸事情はよくわかるのですが、とにかく止めた。相手の苦痛に対して何もできず無責任なようではあっても、私に相談してくるかぎりは自分は光源のこと以外話さないつもりです。
 
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2018.12.07 03:57

 イノシシ年が来ると思い出すことがあります。私は来年まで生きていると仮定すると、イノシシ年を6回経験することになります。4歳、16歳、28歳、40歳、52歳、そして64歳になる来年ということですね。
 このなかで16歳のときのイノシシ年のお正月にちょっと面白い記憶があります。年賀状がものすごくたくさん来たのですよ。クラスの三分の一ぐらいから来た。ガリ勉からも不良みたいな生徒からも来ました。
 
 当時は皆さん、年賀状を書いていましたからね。それにしても前年度より圧倒的に多かった。
 それには理由がありまして、私はその前年の下半期とにかく誰にでも親しげに振舞いました。登下校時、やたらとみんなに声をかける。挨拶する。お弁当なんかもできるだけ人と一緒に食べる。どういう話題が出ても相手に合わせる。ばかみたいな話題でも興味があるように振舞う。
 
 当時から好き嫌いというのは激しかったのですが、とにかく仲間にだけは徹底的に「迎合」してみました。大人相手には意図的に失礼な振舞いも多々あったのですが、とにかく仲間だけは大切にしている「ふり」をしました。
 本当のことを書けば、その年(大阪万博の年でした)心から友情を感じたのはほんの2~3人に過ぎません。あとはどうでもいいと言えばどうでもよかった。実際、翌年(イノシシ年になってから)はがらりと方向性を変えました。
 
 徹底的に迎合するとどういうことになるのか試してみたかったのです。年賀状という形で答を得ようと考えたわけではなかったのですが、ある程度結論を得たとは感じました。父親は大量の年賀状を見て「お前は人がいいから、いいように利用されているだけじゃないのか?」などと皮肉を口にしていました。
 結論が出たと思うと同時に、これはじつにばかばかしい実験だったと考えた。そして、それ以来、私は一切他人にペースを合わせなくなりました。そのまま現在に至るという感じですね。
 
 イノシシ年が来ると、あのときのことを思い出します。学生時代大量の年賀状が来たのはあとにも先にもあの1年だけでしたから、強く印象に残っています。いわゆる人気みたいなものを強く求める人生ではなかったようですね。
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2018.12.05 00:45

 寒さが厳しい地域に住んでいるからこそ「暖かくてしのぎやすい」という状況のありがたさがわかります。いつもいつも温暖であれば、それがあたりまえになってしまってありがたいと感じる機会もないまま物事は進行するでしょう。
 何かをありがたいと痛感するためには、そうではない瞬間を熟知している必要があるのです。そういう意味で「平和ボケ」みたいな状態はちょっとこわいと思います。戦争がないことを日々感謝せずに過ごしている状態だからです。
 
 幸福というのは1つの心の状態ですが、多少なりとも不幸を感じた経験のある方だけがあらためてしみじみ幸福だと感じられるのではないでしょうか。よく他者から見るとうらやむほど幸福に見える方が、ふと「人生が面白くもなんともない。何でもいいからもっともっと刺激がほしい」とおっしゃったりして周囲が驚くことがありますが、このあたりの事情を物語っているように感じます。
 幸福の状態があたりまえすぎて、気づきにくくなっているということですね。
 
 死というのは必ずしも悪いものではなく、死が存在するからこそそこに至るまでの生を充実させようという切実な希望が生まれてくるのです。死そのものは1度しか訪れませんが、擬似的な死ーーたとえば失恋、友情の喪失、金銭的失敗、受験の不合格、試合の敗北などーーは、どなたでも何度か経験するものではないか。
 ダメージは受けるでしょうが、物理的な死ではないのですからむしろ擬似的死の冷たさを全面的に受け止めることで、逆転のイメージをふくらませていくこともできるでしょう。
 
 昔「おれは1回も失恋したことがない」と豪語していた知人がいたので、細かく事情を訊いてみたところ「むりそうな相手には絶対に近づかない」と言っていたので、それもまたどうなのかなと感じたときがありました。跳べるハードルだけを永遠に跳び続ける人生には確かに失敗がほとんどないかもしれませんが、十全に生きたという感覚がちょっと欠けてしまいそうです。
 生だけでなく愛という概念もまた死がちらつくからこそ深い意味を持ってくるように思います。
 
  暖かさの恩恵を極寒の気候がきわだたせているように、思い切り生きて愛したいという前向きな姿勢を死が持つ有限さが支えている面がある。そういうことですね。
 
 
 
 
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2018.12.04 09:32

 あたりまえのことですが、文章というのは単語で構築されていますね。最小単位が「単語」です。「そして博物館に行きました」という文章、6つの単語でできています。で、ふつうの中学生であれば博物館に行ったのは過去のことだなということがわかる。「ました」となっているからです。
 文章を書いているほうは当然伝わっていると信じて話をどんどん進めていくでしょう。ところが日本語を習いはじめた外国人の方ならどうか。
 
 博物館に行く事実はわかっても、ひょっとすると「ました」の部分はまだあいまいになっているかもしれません。いまから行くのか過去の話なのか、ちょっとごちゃごちゃになってしまう可能性もあります。するとそのあとの部分も当然理解できる要素が低下してきますね。
 こうしたことが私たちのあいだでは頻繁に起きています。そこに差が、読解力の優れている人とそうでもない人の差が出てくるのです。
 最近、あちらこちらで目にする「遺憾」などという言葉もそうです。
 
 非常に幅の広い意味を持っている。辞書にはそこまでくわしく載っていないかもしれませんが、使うシーンによって意味の振れ幅が非常に大きい。日本語の単語というのはすべてそうです。その振れ幅のどこからどこまでを獲得できているか。
 長文で使われているすべての単語の振れ幅を正確にとれればとれるほど読解力は増すことになり、辞書的な通りいっぺんの意味しか知らなければ大変浅い理解になってしまう。書いている人間の「遺憾」と、読んでいる人間の「遺憾」は全然違う可能性があるということです。
 
 類推が逆に出ることもありますね。「せわしない」という言葉。「せわしい」の打消しではないですね。ないがついているからといって打消しとは限らない。「適当に」ということば。まったく逆の意味になることもあります。ちょうどいい感じともとれるし、いい加減にやったともとれる。そのあたりは前後の文章から読み取る必要が出てきます。
 全文章の全単語の振れ幅を豊かにするためにはどうしたらよいですか。読む「しか」ない。量をこなして同じ単語に何度も何度も正面からぶつかるしかない。
 
 話し言葉で小中学生の方が「遺憾」とか「概念」とか「アイデンティティ」とか「形而下」とか・・・使うとはちょっと考えられません。大人と話したって向こうも気を遣ってわかりやすい言葉を出してくるに決まっています。ですから容赦なくそうした言葉を浴びるためには読む「しか」方法はないということがわかりますか?
 読書と国語力とは関係がないという先生もいらっしゃり、必ずしも否定するものではありません。ただ私の知っている限り、すごく国語が得意だという生徒は例外なく大量に読み考えています。
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2018.12.03 08:30

 古いアーティストの音源はどのアルバムがどれぐらいよいのかがわからないので、結果的にベストアルバムの類を買うことがよくあります。ボビー・ヴィントン、ヘレン・シャピロ、フリー・ムーブメント、ゲーリー・パケット&ユニオン・ギャップ、ハミルトン、ジョー・フランク&レイノルズ・・・あげていけばきりがないですね。
 スモーキー・ロビンソン&ミラクルズもどの曲がどの時代のものなのかよくわからず、アルティメット・コレクションというものを購入しました。
 
 もっともそれはもう何年もまえのことです。で、聴く。ただその種のアルバムはすごく長いので、だいたい何かをしながら聴いています。食べたり読んだり歯を磨いたり顔を洗ったり髪をととのえたりしながら聴いていることが多い。
 すると「あ、この曲は知っている」程度の感動しかない。真剣に聴くというよりは、ただ流しているだけだからでしょうね。ハード・ロックやヘヴィ・メタルのアルバムだと頭から比較的真剣に聴くので、ちょっと差があります。
 
 ですから、スモーキー・ロビンソンのこの名曲を知ったのはつい最近でした。
 1967年の5月に発売されたヒット曲らしいのですが、じつにきれいないい曲だと思います。いかにも昔のヒット曲という感じでわかりやすく、長すぎず、それでいてロマンチックにまとめられています。
 タイトルもまた秀逸。凝りすぎていない。非常に単純な歌詞みたいなのですが(細かいところはよくわかりません)、かえって心に残ります。
 
 気づいてからはずーっと聴いています。ずーっとというのはどれぐらいか。朝、目が覚めますね。私は蒲団のうえで新聞を読みます。その時点からリピート設定にして聴きはじめます。自宅を出るのが約2時間後ですが、それまでずーっと流している。
 帰ってきて、着替えるときからやはり流します。ブログはこうして朝起きてからか真夜中に書きますが、いまこの瞬間も聴いています。自分の場合、音楽は邪魔にはならないのです。
 
 1967年5月というのは小学生だった私が勉強のし(させられ)すぎで、肺炎を起こして1週間入院した翌月でした。当時の殺伐とした生活にいい思い出はあまりないのですが、私の灰色の日常とは関わりなくこうした名曲が生まれていたのだなと思うとふっと心が軽くなります。
 
 
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2018.12.02 00:31

 格差についてはいろいろなことを考えさせられます。ずっと昔こういう話がありました。あるところで教えていた男子高校生から次のような話を聞いた。仲間の少年をくさして、あいつはきっとうまくいかないですよと言う。仲間なのにどうして? と聞いたら「貧乏をひがんでいるから」と答えるではないですか。
 彼らの通っている私立校は裕福なご家庭が多いと評判の高校で、しかも彼らは塾にまでいらしてくださっている。いくら何でも貧乏ということはないだろうと思いました。
 
 くわしく聞いてみると、次のように答えました。
 おれらは同じ教育を受けている。塾でも同じように先生(私のことです)の授業を含め、いろいろな教科を習っている。そこは互角だというのです。でもあいつんとこ貧乏なので、おれらみたいに娯楽がないんですよと言う。
 娯楽って? と質問すると、冬場に仲間で豪華なスキー旅行に出かけたり服やら何やら高級品を買ってもらえたりする環境下にいないというのです。「おまえらはそういう気晴らしがあるから頑張れるけど、おれにはそういうのがないからやる気なんか出ないよってひがむんですよ」
 
 確かにその話をしてくれた生徒は非常に豊かなご家庭で育ったそうです。私はご本人からお父さまがどういう会社を経営されているかを聞いていたので、そのことは前々から知っていました。さらに彼の「仲間」の多くが、具体的には書きませんがいわゆる豊かなご家庭のお子さんでした。
 その中にあっては、確かに相対的には地味な生活しか送れないということはあったのかもしれません。ただそれはあくまでも「特異な世界では」ということです。
 
 限定されたごくごく狭い世界で自他を比較ばかりしているから腹がたつのであって、もっと大きな視点を持てばご自身の価値に気づけたものを・・・と思います。
 世界でいちばん豊かな人間というのはーー以前も同じことを書きましたーー自他の比較を拒否する人間です。勝ったとか負けたとか豊かだとか貧しいとか誰々より持っているとかいないとか、およそ狭い世界で四六時中自分と他者とを比較し続けていては、豊かになれるわけがないのです。
 
 要は、ご自身がどうありたいかだけです。他者との比較を捨ててしまえば、つねに違う世界が見えてくるということを忘れないようにしてください。上には上がいて、下には下がいます。だからなんだ? ということです。ご自身の独創的な世界は、ご自身が自力で構築するのだという強い気持ちを持ってください。
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2018.12.01 08:41

 歳をとってくると、いろいろなことが若いときよりはわかってきます。少なくともそのつもりです。ところが日々の連続性に組みこまれていくうちに、いつのまにか認識が麻痺してしまう。そして非常に無意識に判断し行動していることがあります。
 1つ1つのパーツを徹底的に磨いていく以外に全体をよりよくする手段はありません。それはそうですね。建物だとか車だとか仕事だとか勉強だとか・・・ぜんぶそうではないでしょうか。
 
 人生全体もまた然りです。そのことは痛いほどよくわかっている。それなのに習慣性というやつが恐ろしい落とし罠で、うっかりするとまったく無意識に、あるいは投げやりな気分で実際の行動をとっていることがある。
 卑近な例をあげるとこういうことです。以前、ある高名な思想家が「食べることが幸福であれば誰でも日に3度(だったと思いますが)は幸福になれる」という意味の言葉を残されていました。
 
 おおげさな話ではなく、確かにおいしいものを食べるのは幸せなことですね。いつでも人生の大きな楽しみにつながってくると思います。であれば、意識的に食べたほうがいいに決まっている。どんなに忙しくても何日もまったく食事をとらないということはありえないのですから、可能な限り選択して食べたらいいはずなのです。
 ところが忙しさに紛れて「あれ? 昼は何を食べたっけ?」などという日が出てくる。
 
 もちろん熟考すればそうだったと思い出しはするでしょうが、食事以外でもこうしたケースが大量に出てくる「時期」があります。連続性の中に埋もれて無意識に過ごしているからですね。極端なときは、何年も無意識に過ごしてしまう方もいらっしゃるかもしれない。あのころ何をしていたっけ? というような。
 目覚めて行動するべきです。立ち食いソバしか食べられないにしても、何も考えずにただ胃におさめるのとトッピングなどを工夫して意識的に楽しむのとでは、生き方の質の違いは確実に出てくるはずです。
 
 そういう意味で、ときどきご自身の意識をリセットされるといいと思います。より気づいて生きようと意識されるだけで簡単にリセットできますから、新鮮な精神状態でまた生活を続けてくださったらいい。結果的に勉強も仕事も無意識のときよりうまくいくでしょうし、幸福感も増大すると思います。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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