2019.06.26 03:36

 歯医者さんに定期的に通っています。健診ですね。月に1回というのは多すぎる気がしないでもないのですが、先生がおっしゃるので単純にそのほうがいいのだろうと通っています。
 もう何年にもなります。だいたいは朝一番に予約を入れる。9:30ですね。月1回としてまあ5年間60回ぐらいは(治療も含めて)通っていますが、1回も遅れたことはありません。
 
 9:30のときも9:45のときも、それ以外の時間帯もだいたい5分前には到着するように心がけています。早すぎても迷惑でしょうから、5分より前に着いてしまったらあたりをうろうろして時間をつぶす。
 ただ今日書きたいのは、そういう話ではありません。待合室で週刊誌を読んでいたら、痛ましい事件についての記事が出ていました。いわゆる社会的エリートのお父さまが暴力的なご子息を結果的にあやめてしまった・・・
 
 息子さんがはっきりとご両親の教育方針は間違っていたと、何かの文章に残していたそうですね。期待通りの点数がとれないと罰として宝物のようにしていたプラモデルだの何だのを壊されたりしたらしいのですが、もし本当だとしたらいくら何でもちょっとまずいやり方だなと思いました。
 息子さんは体力的に互角以上になるまでひたすら待ち、それからは逆襲(家庭内暴力)に転じた。積年の恨みを晴らすことが、もはや正義や使命になってしまっていたのでしょう。
 
 たかがおもちゃをこわされたぐらいで? と考えるのは大人のエゴであって、ものの価値はいちばん大切にしていた人間にしかわからない。それは私自身の体験とダブる部分もあり、自分の場合は楽しみにしていたテレビやマンガをこんな点数では今日から一切禁止と何の予告もなく命じられた。ご家庭のルールは親がかっとなって独断で決めるものではなく、闊達な話し合いの中で少しずつ調整していくべきものです。ですから、当時は私も「いつか絶対に復讐してやるぞ」と強く思いました。
 
 民主的に話し合う過程で、ひょっとするとこの子はあまり勉強に向かないかもしれないというケースは出てくるかもしれません。それはそれで本質がわかってきたわけですから、全然悪いことではない。見栄や体面をとりつくろおうとするよりも、よほど正直で幸福な生き方になっていくと思います。
 あるときある会合で、非常に社会的地位の高い方からお子さんについての教育方針をうかがったことがありました(仕事とは関係ないですよ)。
 
 猛勉強させすぎて、ご本人がおかしくなってきた。心療内科のお医者さんはこれ以上はむりだとおっしゃっている。お父さまは豪快に笑い「受験勉強程度でつぶれてしまうのであればどうせモノにならないわけですから、勝手につぶれろという気持ちでとことんやらせます」とおっしゃっていた。ライオンはわが子を谷底に突き落として這い上がらせるというたとえ話まで出てきました。
 そういうのは「先に行ってこわい」かもしれません。復讐心はつねに部分否定ではなく、全否定として働くからです。
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2019.06.24 01:22

 たとえば詩というものは言葉からできていますね。日本の詩であれば日本語でできています。ただその素晴らしさを探ろうということで、徹底的に単語に分解して研究したら素晴らしさの理由が解明できるかというと、そういうものでもない。これは非常に示唆に富んだ実例で、部分をいくら精緻に分析しても全体の価値はよくわからない可能性があるということです。
 おそらく人体なんかもそうでしょうね。西洋医学は、あまりにも部分の解析に固執しすぎているような印象を持ちます。
 
 言葉の組み合わせでうん? と感じるものがいくつもあります。なぜそこに触れるのかはよくわかりません。最近、飲食店で「一生懸命支度中」だとか「真心こめて準備中」だとかという札がかかっていることがよくありますね。昔読んだ何かで、あの札のことを「ふざけるな!」みたいに面白おかしく論じられていたものがありましたが、誰もいらっしゃらない真っ暗な店舗(要するに無人状態)のドアにあの札がかかっていると、現時点ではそれほど一生懸命でもないかもしれない・・・と感じることはありますかね。
 やはり言葉の持つ何かでしょう。
 
 話し言葉でもそうですね。若い方が経営されている飲食店でーーよくありますよーー挨拶が決まっている。大声で「あざーす!」(ありがとうございますという意味だと思います)と怒鳴ったりするのですが、場合によっては怒っているようにも見えます。場内いっせいに野太い声で「あざーす!」は、こわいですよ。
 そういうお店は統制がとれていて、全員がお揃いの原色Tシャツに鉢巻をしめていたりして漠然とした威圧感がある。Tシャツの背中にも白抜き文字で「命賭けます!」みたいな文言が印刷されていたりする。
 
 言葉のことを考えるとすぐに思い出すのが、個性的なコメディアンだった故たこ八郎さんの名言(?)「迷惑かけてありがとう」です。これまた非常に不思議なセリフですが、単純な間違いと考えるのが惜しい詩的情趣を感じます。たこ八郎さんは元ボクサーでパンチをもらいすぎて脳にダメージを受けていたという説や酔っ払って酩酊状態だったのでは? などという説もあるようですが、仮に言い間違いであってもこんなオシャレな表現ができるのはたいしたもので、ああいう姿はキャラクターとして見せていただけで、案外表現力のすぐれた方だったのではないかという気がちょっとだけします。
 
 この「迷惑かけてありがとう」などはそれこそ分析してしまうとだめですね。迷惑をかけられるぐらい親しい関係であることに感謝を捧げているに違いないなどと解釈してしまったら、全然面白くない。全体の雰囲気というか力というか、波動の面白さを損なってしまいます。あえて分析しないということもときには大切であると思います。
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2019.06.23 00:39

 ある都立中高一貫校の校長先生が教室に講演にいらしてくださいました。そのとき保護者の方のご質問に答えてこういう話をされていた。
 学校はいいことばかりではない。つらいこと、いやなことなんかも起きるでしょう。そういうものですね。誰が悪い何が悪いというわけでもないのに面白くないことがなぜか起きます。そういうのは大人の世界と変わらないですね。そんなとき、お父さんやお母さんとあれこれ話せる環境だとうまくいく。よく出来る子のご家庭にはそういう要素があるというお話でした。
 
 先生は「そうしたご家庭は小学生のときからずーっとそうだったのでしょう」ともおっしゃっていた。世の中でいろいろ難しい事件なんかが起きたときに、ご家族であれこれ話し合う習慣があった。
 私も親子関係が円満であるというのはとてもいいことだと思います。いいことというより、必要なことでしょう。勉強でも何でもそうですがうまくいかなくなってしまう以前に、環境がまず劣化する事実があります。何だか親子関係がぎすぎすしてくる。いわゆる反抗期と言いますが、いきなり反抗するわけではないのです。
 
 はじめに独自の考えを持つようになる。大人が考えるのとは違う方向に発想していくようになる。生徒でもいます。奇妙なことを言い出すのが。たとえば全然勉強していないのに、びっくりするような難関校に入ると言い出す。どう考えても発想的におかしいところがある。そういうときーー仮に身内だとしてもーーお前みたいな成績の怠け者がよく言うよみたいなことを言ってしまったり、お前の点数でそんなところに合格できるわけがないじゃないかと嘲笑してしまったりするから、次は「反抗」という形をとらざるを得ない。
 
 ここはじっくりと聞いてやる。そのうえで現在の自分のレベルを脱却したい気持ちはよくわかった。ただそれを高名な学校の名称を出すことだけで、隠れ蓑にしていないか? というようなことをご本人と話し合える状況が大切です。
 このままではいけないということがわかっているだけでもたいしたものではあるのです。そこからスタートする。今日の勉強、いまの勉強がどうであるかということがいちばんの問題です。ところが、それは見たくないものだから将来どこどこ大学の医学部に行きますなどと飛躍させてしまう。
 
 そしてどこかで(そんなところを目指している自分はきっと大物だから)と安心しようとする。見えている部分、見ようとしない部分、見るのがこわい部分、けれども見なければいけない部分・・・落ち着いて「みんなの会話」にできるかどうか。おうちの方もできればご自身の失敗談を披露されるといいのです。私であれば、惨めな気持ちを払拭したくて「おれはそこらの雑魚と違ってノーベル文学賞を目指すから」などと言って(実話です)ごまかそうとした。しかも、気づかなかった。そうしたことを温かい空間で話せるかどうかはけっこう大切だと思います。
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2019.06.22 06:44

 年金制度のことで、世の中何だかかまびすしいですね。かまびすしいという用語も久々に使いました。小中学生の方、ちょっと辞書で調べてみてください。「雅語」と出てきましたか? 日本語にはいろいろオシャレな表現がありますね。
 政治的なことはよくわかりませんが、税金などはやはりたくさん持っている方から多めにいただいて、あまり持っていない方からは少なめにいただくという形しか本来はうまく機能しないように思います。
 
 おそらく多く持っている方の相当数が「正しく使われるのであれば多めに払ってもいい」と考えていらっしゃるでしょう。ところが、使途があちらこちらで不透明だったり理不尽だったりするので、そういうこと(世の中全体のためになっていないということ)であれば、多めには払いたくないと考えるのだと思います。
 私もいずれ老後ということになりますが、とくに着々と準備しているわけではありません。非常に不安定です。そのあたりは個々の生き方ですね。
 
 私は特定の宗教、宗派の信者ではありませんが、宗教書の類を非常にたくさん読んできました。意図せずにそういう人生になってきたのです。とくに40代半ばからは仏教や禅、道教関係の書籍が多くなってきました。そして、人間の1つの究極の開花がブッダではないかと考えるようになりました。普通のお金持ちがさまざまな過程を経てあの境地までいけるということは、大げさに言えば奇跡のように感じます。
 その思想に感銘を受けたので、たとえば執着するなとか極端な情熱を持つなとか貪欲さを捨てて無欲であれとか、自分自身もそうありたいと考えるようになりました。
 
 その結果としての現在の生活です。世間的な平均値でどうこう言われても、そもそも平均値は全然考えなかったから・・・としか言いようがありません。現状は、ブッダという高峰に憧れあれこれ活動してきた結果であり、その状態を「不安」と定義されるのであればそれはそれで甘んじるしかないと考えています。あらゆる方面において執着と過度の情熱に基づいた貪欲な生き方を選択することは不誠実に感じられるわけですから、どういう報告がなされようとも今後も執着や貪欲はできるだけ手放して無欲に生きようと考えています。
 
 もちろん、こんなことはあくまでも個人的な見解で、私は息子にさえ「ブッダの本を読みなさい」などと言ったことはありません。彼には彼の出会いがあるでしょうから、それこそ大富豪や大権力者に憧れ私とは真逆にひたすら金銭を貯めこむ生活を志したとしても、他者の人生に私自身が執着を持ちたくないという思いがあるのでまったく干渉しないと思います。こうした個人主義的なあり方は、親子関係を良好に保つための鍵にもなってきたかもしれません。
 
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2019.06.20 01:39

 何年か前、都立トップ高校のある校長先生が講演会で「何と言ってもまずはきちんとした挨拶でしょう。それができないようでは何もはじまらない」という意味のことをおっしゃっていたことがあって、そういうものだなと思いました。ちょっと考えてみればよくわかりますが、大人と大人の関係で何かを一緒にやっていこうというときに挨拶もせずいきなり作業というケースはまずありません。
 親しさの程度によって「おはようございます」なのか「オッス」なのかは別として。
 
 関係のスタート時点では挨拶が当然ということです。そんなものなくたって作業は可能じゃないかという考え方はわからないでもないですが、挨拶があったほうが心理的に円滑に進むのは間違いありません。それどころか挨拶なしではちょっとしたしこりが残る可能性もあります。片方が「こんにちは」と言ったのに、もう片方が何も返さなかったりした場合ですね。
 上下関係があるときなど尚更そうだと思います。先輩が「こんにちは」と声をかけたのに後輩が無視ではサイアクでしょう。
 
 何度も書いたように、私は少年期に両親への反抗心が高じて大人全体に絶対に挨拶をしないと決めていた時期がありました。それはもうひどいもので、たとえば先生(そういう先生もいらっしゃった)のほうから「おはよう」と声をかけてくださっても、下を向いて返事をしませんでした。ただ先生が憎いわけではないので、うしろめたさはつねに感じたものです。先生は悪くないけど、ぼくはもう大人に挨拶しないと決めたから・・・みたいな感じですね。
 
 ちょっとだけ気になるのですが、私の周囲にもやはり挨拶しない生徒が何人かいます。こちらから声をかけても挨拶はない。声は出さなくてもちょっと頭を下げてくださったりする子は大丈夫でまあ恥ずかしいのだろうなと理解できるときもあるのですが、まったく無反応という子もいて背後にあるものが何なのかちょっと心配になることがあります。そもそも学校の「内申」がとれないでしょう。校長先生が「まず挨拶」とおっしゃるぐらいですから。
 
 ご家庭での習慣の大切さというのは、そのあたりにあると思います。挨拶がまったくできない(しない)昔の私のような心理状態は、先天的なものではありません。挨拶をしないことで彼ら自身も葛藤していたりしたら気の毒です。ひょっとすると、ご家庭でも挨拶は一切なしできたのではないか? 
 挨拶の習慣や演出は、やはり大人のほうから積極的恒常的に努力するべきであり「一切挨拶しない少年」だった自分は、息子が私みたいにならないようにずいぶん配慮しました。まあ、できるところからですね。10代の彼らが、挨拶だけでも相当の人間関係が築けると気づいてくださるといいのですが。
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2019.06.19 00:10

 今年度、珍しくきちんと週に2回休めているように思います。こういうことがなぜかうまくいかなくなる時期があるのですが、だいたいは臨時の授業が入ったりしてですね。現在までのところ、自分の授業がある曜日は土日と水曜日だけです。
 ところが10月ぐらいになると隔週でおそらく月曜日に授業が入ると思います。少なくとも例年だとそんな感じですね。すると休めるのは火曜日か木曜日か金曜日ということになります。
 
 金曜日というのは、教室ではとくに何もなくても本部で大きな会議があったりして毎週金曜日を定休にするのはちょっと難しい。そこで今年は月曜日火曜日木曜日のどこかでお休みをいただくようにしています。
 本当は固定化したほうがいいのでしょう。一緒に働く仲間のお休みが、私の休みによって左右されてしまうのはよくないですからね。皆さん、前もって予定をたてるものです。毎週何曜日はお休みできるはずだから・・・と予定をたてる。
 
 そのとき私が突然、その週の何曜日は自分も来ないよなどと言い出したら、他の方の予定がたたなくて困ってしまう。
 ただ私はいちおう教室長という立場でもあるので、何ヶ月も何ヶ月も決まった曜日だけを定休にするということになると、特定の先生やその日だけ通ってきてくださる生徒とは何ヶ月も会えないということになります。頼りない教室長ではあっても、場合によってはあちらも何か相談したいことがあるかもしれないので、それだけは避けたい。
 
 そこで月に何度かは休みをずらしています。今週であれば、木曜日に出てきてかわりに金曜日にお休みします。来週は、月曜日に出てきて火曜日にお休みをいただく。そのあたり、細かいばらつきみたいなものは心がけています。
 昨日は近所のご主人が入院されている食べ物屋さんに行ってみたのですが、4週間たったのに(貼紙にははじめは3週間の予定だったのが4週間休むと書かれていました)やはりお店は閉まっていました。もう少しかかるということなのでしょう。
 
 働けなくなると、人間働きたくなると思いますよ。自分が社会の役にたっているということは、やっぱり仕事で実感することが多いでしょうから。役にたつ形は人間の数だけあると思いますが、得意なことをこつこつやっていくのがベストでしょうね。自分で言えば、国語の授業ということになりますか。
 お休みが待ち遠しいときもありますが、それは仕事をしているおかげです。ありがたく明日(もう今日か)の授業も、自分なりのやり方で励ましていきたいと考えています。
 
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2019.06.18 01:10

 講師時代の話ですから20年以上昔のことです。ある塾の先輩(教科は私と同じでした)が後輩講師のことを非常に悪く言っていたことがありました。あの先生はだめだと決めつける。酒席での話ですし、細かいところは忘れてしまいました。ただ、授業が雑である。生徒や父兄にひたすら迎合している。塾の偉い人たちにおもねってばかりいる。ところが周囲が見る目がないものだからいい感じに重用されて・・・
 ああなったら終わりだよ。若いくせに進歩がないとおっしゃるのですが、正直なところ私が感じたのは単純な嫉妬心でした。
 
 よくある話で、批判する対象が「自分がそうなれずうらやましいから」ということから激烈に非難してしまうことは世間にはよくありますね。
 ときどき「世の中にはずるいことをやってうまい汁を吸っている奴がたくさんいる。自分なんかこんなに正直に生きているのに」という嘆きを耳にすることもありますが、どこかに自分もできることなら多少ずるいことをしてでも儲けたい。そういう仲間に入れないものだからやたらと批判する、というケースもあるのではないでしょうか。
 
 ですから、批判的な気持ちが起きたときには私は冷静に自己分析するように心がけています。するとだいたいは同じような「変な」芽に気づくことがあり、その後を調整することができます。
 また、あることで騙されたという知人がいました。彼は「自分は全然悪いことをしていないのに」と嘆くのですが、私にはその人の人一倍強い欲が十分危険な要因であったと感じられました。つまり「普通ではありえない」儲け方を狙う貪欲さですね。その結果として損失が生じた。
 
 健全に儲けたいという欲求はあっても、「普通ではありえない」方法で儲けたいとは考えない人間も当然います。そういう人は度の過ぎた貪欲さは好ましくないと考えている。だからこそ同じ話にひっかからないわけで、ひっかかってしまった原因の1つが個人の内面にあったのだとすれば、場合によってはその貪欲さにこそ罪があるのかもしれません。
 いつもそうですね。与えたものが返ってくる。
 
 若いころ、女の子にふられるたびにーー私の青春時代はそんなことの連続でしたーー落ち込んだりしたものですが、いま冷静に考えて、太宰治にかぶれて自殺願望を持っている破滅的な作家志望者(私のことですよ)なんかと恋愛したいと考える女性がいるわけがありません。そこにまるきり気づかなかったというのですから、お粗末きわまりない青春でした。
 自己分析はやはり大切だと思います。極端に腹がたったりすることは、その人間の深い何かが触れている可能性があります。
 
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2019.06.16 00:13

 このブログはちょうど10年前ーー2009年の6月17日からスタートしました。今日が16日ですから、丸10年経過したことになります。
 ただスタートしたときは中学受験生応援団というブログでした。私は「応援団長」の長野先生になっていた。「団長」という名称は、自分の本質にまったく合わないのでそれはそれで面白く感じたりもしました。「団長」にふさわしい方はいくらでも存在するはずなのですが、なぜか私に書いてみませんか? という話がまわってきました。
 
 当初は約半年間(つまり中学の受験まで)というお話でした。半年ぐらいなら何とかなるかなと思い、受験生であれば毎日勉強するのが当然でしょうから、私も毎日必ず記事を更新しますとお約束した。いろいろな時期がありましたが、そのお約束はいちおう果たすことができました。
 対象は基本的に小学生と保護者の方ですから、現在より若干制約も多かった。それでもけっこう自由に書かせていただいたので、楽しかったですね。
 
 幸せに生きるヒントというタイトルになったのは翌2010年の春からです。週に1回ぐらい更新すればよいという条件でしたが、何となく週に4、5回更新するようになりました。
 以前も書きましたが、まったく偶然にご病気の方が楽しみにしてくださっていることを知って、なるべく書いていきたいという気持ちになりました。明るい話題、前向きなユーモア、優しい励ましですね。大げさなことを書くつもりはないのですが、掌に乗る程度の小さな灯火は大切にしたいとつねに考えています。明るすぎるのもまた疲れますからね。
 
 会社に書かせていただいているので教育ブログという縛りはもちろん存在し、自分自身のブラック・サイド(?)は出せずにいるのですが、それはそれでいいのかなと思っています。「長野先生」というのも1つのキャラクターであり、看板を掲げているかぎりは期待された形を踏襲していくものでしょう。
 数年前には僥倖に恵まれ、書籍まで出していただいた。これだけはまったく予想外のことで、当時お世話になった社内外の多くの方たちにはいまでも感謝しています。
 
 いまは今後のことはまったくわかりません。なるようになるでしょうね。いつでも「起きたこと」がベストだと考えてきました。よりよい日々を期待して、最後までささやかな灯火を提示していくつもりです。
 今後ともよろしくお願いいたします。
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2019.06.15 00:18

 勉強がきらいだからやる気がないとは限りません。ここはとても繊細なところですが、勉強を最上位に置きたがる価値観への反発から勉強をやらなくなるケースだってあるのです。
 私自身がそうだったのでよくわかります。大人たちがいわゆる優等生ばかりを称賛することにうんざりした。中学生のころ、両親に級友のことをすごいやつがいると自慢(?)したところ「落ちこぼれを評価したがるのはお前自身も堕落しているからだ」と言われて、ショックを受けたことがあります。
 
 級友は確かに優等生ではありませんでした。成績は後ろから数えたほうが早かった。ただ非常に尊敬できる特質を持っていて、私はそのことをすごいすごいと興奮して話していたのです。ところが成績を確認した途端に、会ったこともない人間を「なんだ、落ちこぼれか」ですよ。
 尊敬する級友(自分が文章による創作活動をはじめるきっかけは彼でした)を非難されて、私は内心で(何様なんだ?)と思いました。こんな価値観に毒されてたまるかとも考えた。これ以外にも、そうした事件があまりに頻繁に起きすぎました。
 
 成績がいい者だけが絶対善だという価値観に腹がたって、勉強そのもののやる気をなくした。そもそも行きたい大学もやりたい勉強もなかったので、あとは適当に恥ずかしくない程度に・・・ぐらいですよ。
 先生によっては「やればできるのだから」とおっしゃってくださったりもするのですが、もはや深いところまでは届かない。表面上穏やかさを装っていましたが、内心「やらないと決意した人間につまらないことを言うもんだなあ」です。
 
 一般的にやる気をなくすような数々の出来事が長年累積してきているのだとしたら、もはや「やる気スイッチ」も何もないですよ。私なんかスイッチそのものがこわれていた。やらないこと自体が自己の証明になっていたからです。両親から「厳しいことを言うのはお前のためだ」などと言われるたびに、私は本当に自分のためを思うのだったらもう一切放っておいてくれと考えました。どんな善意のアドヴァイスであっても、迷惑なだけでした。ぜんぶ逆をいってやるという意地だけで生活していた。
 
 万が一、過干渉で極端にやる気をそいでしまったのであれば、とりあえずは自己責任という形で「任せたよ」と改めて見守ってやれる度量の大きさを見せる以外にないと思います。いまのまま何かしらあなたの理想の形を見つけてくれてもいいし、あなたの中にある種の「気づき」が出てきたらがらりと変わってもいい。どちらでもいい。
 あなたの幸せは、あなた自身の自主性に任せたよというメッセージです。いちばんまずいのは、過干渉によるつまずきをさらに干渉することで何とかしようと焦ることだと思います。
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2019.06.14 00:04

 仕事場の机の上にみかんが1つ乗っています。1月に生徒からもらったものです。私の顔ではないと思うのですが、顔が描いてあり長野先生と名前も入っていました。すぐに食べようかなとも思ったのですが、食べてしまうとせっかくの顔をむかないといけない。皮ごとは食べられませんから。
 何となく残酷なような気がして食べることを躊躇しているうちにだんだんしなびてきて、いまは当初の4分の1ぐらいの大きさになりました。
 
 腐るかなとも思っていたのですが、腐りはしませんでした。どんどん水分が抜けていってかちかちになりました。鼻を近づけるとみかんの匂いは残っています。顔と文字も残っています。わかりやすく書くと、みかんのミイラですね。
 何人か気づいた方がいて、これはどうしたのですか? と不思議そうに質問されました。どうしたもこうしたも、深い考えはないままこういうことになってしまいましたとしか答えようがない。どうするつもりですか? とも質問されましたが、どうするつもりもありません。ただ置いておくだけです。
 
 ここまでくると安易に処分できない。捨ててしまうのはもったいないでしょう。そうかといってまさかいまから食べるわけにもいかない。置物(?)として鑑賞するぐらいしか用途はなさそうです。毎日1度は気になって手に取ってみる。日に日に水分はなくなっていく感じです。
 おそらく私がここにいなくなるまでみかんは存在し続けると思います。意図的に片づけることはないでしょうから、必然的にそうなりますね。
 
 私の足もとに、手紙の入った大きなダンボールが2箱あります。2箱目がいっぱいになってきた。ここにはすべて生徒や保護者の方や先生からいただいた手紙が入っています。不思議なもので世の中手書きの郵便物は廃れはじめていますが、手紙を書く人間のところにはたくさん手紙が来ることになっている。与えたものが返ってくるという法則は、ここでも成立しています。
 直接教えていなかった生徒からの手紙もあります。定期的にくださる方もいる。
 
 先日、私のことを信頼していると書いてくださった昔の生徒がいた。もう大人ですよ。他者に対して信頼していると書けるのは、じつはその人間が信頼できる人間だからでもあるのです。与えたものが返ってくる。他者を信頼できる人間は、他者から信頼される何かを持っている。これ以上突っこまずにさらりと流しますが、そういうことです。あなたが信頼できる人なのですよ。
 
 
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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