2019.12.11 00:12

 これは実話ですが、夢の話です。夢の中でも人格というか、本質というか、出てきますね。
 正確に書くと10日の朝です。長い長い夢を見た。私は高校生でした。自分が高校生であることをまったく疑っていない。どこの高校か具体的にはわかりませんが、やはり男子校でした。男子校の経験しかないので、夢もそうなってくるのでしょうね。修学旅行中の出来事です。
 
 一泊目は日本のどこかの旅館に泊まった。書きたいのはその日の話ではないのですが、一泊目もやたらと長かった。自分があまり親しくない級友(実在の人物ではありません)がうるさく話しかけてくるので、わずらわしくて仕方がない。まさに高校時代の自分のようなあっさりした応対をしていました。
 彼らと別行動をとりたいがために、翌朝集合時間に私だけ遅れてしまいました。他の生徒は全員バスで先に出発してしまった。
 
 男の先生が1人だけ私と一緒に残ってくださった。その先生(これまた実在の人物ではありません)は非常に穏やかで愛情深く、私はあまり嫌われたくないと考えました。しかし、不注意で私だけ取り残されてしまったので、さすがにちょっと怒っている感じがあります。服は制服ではなく私服だったのですが、その格好で極寒のオーストラリアで大丈夫なのか? と言われ、そうかこれからそんなところまで行かなくてはいけないのかと内心うんざりしました。
 
 急いで支度をするのですが、なぜか荷物がなくなったり靴が見当たらなくなったりで、追いつけるぎりぎりの午後2時をさらに過ぎてしまいました。すると先生がこうおっしゃった。「これから車を飛ばしてももう間に合わないかもしれない。そういうことであればいっそのこと先生と清水港に行くか?」
 私は、できればそのほうがありがたいと即答しました。集団行動が苦痛であるということ、海外に行くのがいやであるということ・・・静岡県の清水には1度も行ったことがないのですが、そのほうがよっぽどいい。
 
 先生はうーんと悩んでいる。できるだけ連れて来るようにと言われたんだけどなあとか何とかぶつぶつ呟いていたので、そういう話になっていたのでしょう。私はもう1度「ぼくは清水のほうがいいです」とはっきり言った。そこで目が覚めました。
 家内や息子にこの話をしたところ大笑いされましたよ。自分の本質みたいなものは、結局若いころから変わっていないし、まあこれからもそうなのだろうと思います。オーストラリアへの修学旅行からただ1人脱落して、なぜか清水港にという人生ですね。
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2019.12.10 09:08

 人間は「いま何をしているか」ということが非常に大切だと思います。学校や職場ではとか、きたるべき日にはではなく、現在この瞬間何をしているか? ということです。そこにおそらく一生の情報が隠されています。血液一滴でその人の健康状態、未来の病気の危険性がわかってしまうのと同じ要素が、瞬間瞬間に凝縮されているということです。
 ですから、ちょっとこわいのはいまろくでもない(?)状態であれば、結局のところ人生全体がろくでもなくなる可能性もあります。
 
 これは絶望しなさいというお話ではないですよ。逆に考えてください。将来を明るいものにしていきたいのであれば、いまをしっかりさせる必要がある。いつも勉強しろという意味ではまったくありません。きちんと生きようということです。ご自身の主義主張に沿った生き方を常に選択する。ぼんやりしているとかだらだらしているとかという状態はどなたにも必要でしょうが、状況は人によってずいぶん違う。
 授業と授業のあいだの休み時間の過ごし方なんかを見ていると、そういうことは強く感じます。
 
 人間はオシャレをしますね。着飾ることはある意味本能的なものなのかもしれません。オシャレをすることによって無防備な自分をある程度ブロックする。そうした気持ちを、とくにお若い方は強く持たれているかもしれません。そのオシャレというのはしかし何をどう着こなしているかだけではないでしょう。たとえば使用している机の上がどんな感じになっているかというところも、広い意味でのオシャレと関係してきます。休み時間に机の上がめちゃくちゃになっているのは、内面の無防備さが漏れ出してしまっているのではないか?
 
 いまその状態であれば、この先も同じかもしれません。明日もあさっても来月も半年後も、机の上はめちゃくちゃかもしれませんよ。休み時間に机の上がどうだろうと自分の勝手じゃないかという主張も一理あるのですが、私が言いたいのは道徳的な何かではなく、かすかな油断の堆積こそ気をつけたらいいということです。
 下着のシャツがはみ出してしまっている人が、デート中でもあるまいし下着が出ようが出まいがこっちの勝手だろというのと同じずぼらさがこわい。
 
 せめていま何をしているかの中に、ご自身の人生の情報が詰まっているという自覚は持たれてもいいと思います。いまあなたが食べているものがあなたの身体を作るという言葉がありますが、それは食べ物に限ったことではなくいまあなたのしていることがそのままあなたの未来を構築していく。未来を知りたければ現時点を見てごらんということですね。
 
 
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2019.12.08 00:44

 先日、中央線のある駅で若い男性サラリーマン同士が会話しているのが聞こえてきました。おそらく30代。「めし食ってかない?」「うん」「どこで食う?」「どこでもいいけど・・・ごめん、おれちょっと小便してくるわ」
 何ということのない日常会話です。これは別に30代以外でも不自然ではないと思います。確認したわけではありませんが、うちの息子も外ではこんなことを喋っているような気がします。
 
 どうしてそうなったのかよくわからない部分もあるのですが、私は昔から「めしを食う」という直截な表現が苦手でした。他者からそうした言葉で誘われれば、もちろん意味は通じるわけですから、おなかがすいていれば「うんいいよ」ということになる。ただ私が他者に声をかけるとしたら「食事しない?」とさえ言わないですね。「何か食べない?」とも言わない。いきなり食べるか食べないかという選択を迫るのは若干乱暴であるという意識があります。
 
 おそらく私は「おなかはすいているかい?」と婉曲表現を使うと思います。相手がすいていないと答えれば、自分がどんなに空腹でもおそらくどこかに入ろうとは言わない。次のチャンス(?)まで何も食べずにすませます。
 もし相手がすいていると答えれば、そこではじめて「何か食べる?」と提案する。食事という熟語も気取った感じなので、めしとは逆の意味で使用しません。ですから「食事でもしようか」と言わないわけです。
 
 何か食べる? というのは非常にあいまいな表現ですが、言葉の広がりの中に逃げ込める安心感があります。めしを食うというとそれがもうちょっと限定されていく息苦しさが出てくる。
 同様に「小便してくる」というありがちな表現も使用しません。あまりにも状況が限定されてしまうので、若干の下品さが漂う。かといって「ちょっと失礼」などと呟いて姿を消すのもわざとらしい。
 
 場所だけは限定させておきたいという気持ちから「ちょっとトイレに」ぐらいでしょうか。若いころ、私は自分の言葉遣いがひ弱で女性的ではないかと悩んだ時期がありました。もうちょっと男らしく下品にしたほうが楽になるのではないか。上品下品の問題ではないのだということにあとになって気づきました。広がりの問題で、あいまいな表現を好んでいるということなのです。
 ですから、当時女の子を誘いたいときも「最近面白いことはあった?」程度でした。相手が気づかなければそれで終わり。個々の表現にはその人なりの文化が宿るものです。
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2019.12.07 01:23

 自宅でとっている新聞に、ここのところ毎日国語力低下の問題が特集されています。若い人の読解力が落ちている。表現力も急落している。読解力についてはコラムにまで書かれていました。結論として、とにかく面白い本を見つけて読んでほしいとありました。
 活字を読む。それも楽しんで読む。結局のところ、それ以外に文章が読めるようになる秘訣は何もないのです。そうした努力をはなから省略して読解力を高めようというのは、まったく身体を動かさずに人一倍筋力をつけたいと願うのと同じぐらい無理なことでしょう。
 
 担当している中1のクラスでは全員にはっきり話しているのですが、塾に来てくださって授業を受けてテキストをきちんと予復習してさらにテストを受けてくださる。それは大変りっぱなことではあっても、来てくださっている全員がやっていることですから圧倒的な差がつくわけがありません。それ以外の部分、日々どれぐらい読んでいるかが大切で、最低でも毎日15分間は読書するように伝えています。
 何を読めばいいですか? という問いは、だいたいは(なるべく読みたくない)と考えている人から発せられるものですが、本当はご自身で考えてほしい。
 
 はじめは推理小説みたいなものでも構いませんが、たとえばZ会進学教室のテキストには、梶井基次郎だとか志賀直哉だとか夏目漱石だとかの文章がいくつも載っています(梶井基次郎にいたっては中1時点で載っています)。何かしら学んだら、ちょっと他の作品も読んでみようぐらいの積極性は大切だと思います。
 事実そういう生徒は複数います。だから同じテキストで同じ先生で学んでいてもーー残念ながらーー大きな差が開きはじめる。
 
 先日あるテストに夏目漱石の文章が出てきました。ああいう古い文体が苦手なのでどうしたらよいですかと質問に来てくれた生徒がいて、もちろん対策を話しました。ただすでに中1の時点で夏目漱石のその作品を「面白かった小説」にあげていた生徒もいる。「古い文体」どころか、ひたすら愛読してきた作品の一部ですから、全体から部分を的確に理解することも可能です。点差が開くのは当然すぎるほど当然で、こうした事実を知ったあとで「ではあなたはどうするか?」ということがいちばん大切ですね。
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2019.12.06 08:26

 昔、アメリカのテレビドラマに「奥さまは魔女」というのがありました。はじめて見たのは自分が高校生のときだったと思います。それから何度も何度も再放送があり、このブログにも朝のテレビで偶然見かけたという記事を書いた記憶があります。
 出演していた俳優さんも赤ちゃん役の方以外は、皆さん亡くなってしまったみたいですね。それだけ月日がたった。こんなことを書いている私自身が、いつどうなるかわからない。いとこは私より若く亡くなっています。
 
 私がこの番組を見ていた1970年代の前半は、まだ日本人がそうは海外旅行に行っていない時代でした。アメリカに観光に行ったことがあるという仲間はそのまま「すごいやつ」というイメージがありました。すごいやつというのは、お金持ちという意味もありましたし、人一倍度胸や行動力があるという意味もありました。
 私なんかこの歳になって、海外はおろか飛行機に乗ったことさえありません。逆の意味で「すごいやつ」になってしまいましたよ。
 
 1960年代後半、ボイス&ハートというポップグループが存在しました。男性2人のコーラスグループで、日本では「風に口づけ」という曲がヒットしていました。中学生のときにラジオで聴いて、あまりにもポップなので深くは感動しないものの、それなりにいい曲だと思いました。モンキーズの親戚筋(?)みたいなグループで、モンキーズ解散後は、彼らの一部と合体していたことがあったようです。
 
 そのボイス&ハートが「奥さまは魔女」に出て歌っていたシーンを最近になって突然思い出しました。どうしてそんなことばかり突然思い出すのか不思議と言えば不思議ですが、とにかくそういうシーンがあった。
 そもそもボイス&ハート自体、無名と言えば無名ですからね。これはどうにもならないだろうと思いながらあれこれ検索していると何と! ドラマ内の歌のシーンがそのまま出てきましたよ。
 
 前後関係はまったく不明ですが、彼らがその曲を歌うのを主人公のサマンサが踊りながら見物している。
 私のような地味な(?)子どもも、当時はアメリカに憧れたものです。「奥さまは魔女」で描かれているような世界には、何かとてつもない夢や詩があるような気がしました。こういう生活こそ理想だと勘違いした。当時、そういう若者は多かったと思いますよ。
 アメリカも楽ではないなということは、大人になっていく過程でじわじわとわかってきました。
 
 
 
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2019.12.04 09:41

 抽象的な概念の中で目標を設定できる人間はいろいろなことがうまくいく気がします。逆に具体的なことしか思い浮かべられないとなると、若干子どもじみていてもう少しだけ深く考える必要が出てくるかもしれません。
 たとえば特定のだれだれさんと結婚したいと考えたとします。非常に具体的です。具体的すぎてそのための努力というのが、あまりにも露骨になってくる。何しろだれだれさん以外とは結婚したくないわけですから。
 
 そうした願望の中で特定のだれだれさんと結局一緒になれなかったら、いったい何が残るのか。場合によっては人生に対する絶望だとか不信感だとか厭世観だとか、そうしたものでいっぱいになってしまうかもしれません。
 じつはこうしたことこそ、もう少し広げて考えられるといいのです。妥協でも何でもない。だれだれさんのような人がどうして好みであるのか。どのような家庭を築きたいのか。一緒になることで、周囲には何が還元できるのか。
 
 成功だとか幸福だとかを自分のためだけに希求していると、じつは成功した後でも(こんなものか)という失望を味わったりすることがあります。自分が喜んだ。家族も喜んだ。だから何? みたいな要素が出てくる。
 もしあなたの成功や幸福が他者にも関係するものであれば、それはまた別の広がりが出てきて、さらに幸福を感じることができるでしょう。ところが、現代人は利己的になってしまって他者を喜ばせるのは損だとまで考える人もいます。
 
 志望校なども特定の学校名しかあげない人がいます。もちろん悪いことではない。ただ理由を聞いてみると、あまりはっきりしない。いちばん有名だからとか、自分にもプライドがあるからとか、ときには合格してみんなを「あっ!」と言わせたいとか、ほほえましい理由は出てくるものの、そこでしかできない勉強をしたいと詳細に語れる人は案外少なかったりします。
 同レベルの他校では何がそんなにだめなのか? そのあたりはいろいろ考えてみるといいかもしれません。
 
 自分はこういう方面に何となく進みたい。そのためにたくさんの道があり、あれこれ比べてみて現時点の自分に負荷がかかりすぎず、かと言って相当の努力が必要な場所で次のステップに向かって日々頑張ろうという精神こそ健全でしょう。
 同じようにやりたい仕事を固定化してがんじがらめになっている人もいますが、やりたいことにそれなりの幅が見出せないのはちょっと心配でもあります。「先生になりたい」より「多くの人に何かを伝えたり教えたりする仕事がしたい」のほうが広がりがある。あらゆる意味で寛容さが欠如しているのは、未成熟だからだと思います。逆に言えばまだ成長の余地がありますね。
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2019.12.02 07:57

 つねにそういうものだと思いますが、人間関係には適度な距離感がどうしても必要になってきます。簡単に書けば、つねに密着状態では長続きしない。老若男女を問わずそういうものでしょう。
 当然親子関係もそうであって、どちらかが息苦しく感じだしたらうまくいかない。そのときは話し合い以前に、とりあえず距離をとってお互い自由に呼吸できる空間を確保されるといいでしょう。
 
 比喩的な表現になりますが、息を吸ったら相手の息しか呼吸できないような不自然な密着状態ではいらいらはつのるばかりです。
 恋人同士でも、毎日毎日会っているのははじめは楽しいかもしれませんが、だんだんいらいらしてくる。喧嘩の回数が増えてくる。個々人の精神は内奥で自由を欲しているのに、その隙間がないからです。そういう状態だと、仮に長く続いてもお互いを啓発しあえるような理想的な関係には昇華していかないと思います。
 
 昔、友人から「人間関係は必ずしもお互いを高めあうためにあるわけではなく、一緒に落ちていくような関係もいいと思う」という話を聞いたことがありました。なかなか文学的ないいことを言うなとは思ったのですが、実生活において何かしら成功しようとか幸福になろうとかささやかであっても社会に貢献しようとかということになってくると、落ちていく関係を維持するだけではうまくいきません。
 親子兄弟友人恋人どの関係であっても、相手を高める光線みたいなものが提供できているかどうかは大切なポイントになると思います。
 
 コミュニケーションというと誰しもすぐに言葉でどうのこうのと考えますが、本来存在そのもので伝えられるものがないといけない。それは安心感であったり温かみであったり愛情であったりというのが望ましいのですが、逆に存在によって恐怖感や嫌悪感を与えているケースもあるわけで、言葉以前のそうした関係は気をつけていかないといけない。
 親がいるから家に帰りたくないという気持ちは私自身10代のときに何度も経験しています。だから友だちの家からなかなか帰らない。
 
 帰宅が夜中になって叱られたりしましたが、あなたたちがいる家には帰りたくないのだとまでは言えませんでした。そのことに私自身はっきり気づいてもいなかった気がします。彼らのよかれと信じる過干渉が、こちらの呼吸を苦しくしているのだという理屈を冷静に観察できるほど私自身が成熟していなかった。
 少し隙間を作る。何でもないようで、価値のあることだと思います。
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2019.12.01 01:17

 自分は現在こうしていわゆる「教育関連ブログ」を書かせていただいていますが、本来は文芸的なものを書きたい気持ちが強く、時間の余裕ができたらどういう形にせよそちらに注力しようと考えています。ここまでくると、発表のチャンスがどうのこうのはもうどうでもよくなってきて、要するに中途半端な形で寝かせている存在をとうとう世話できないままで死んでしまうのはしのびないという変な気持ちがあります。
 文芸的な作品には、不道徳なことも平気で書けます。非常に不可解なことも書けます。
 
 ウソもたくさん書けます。事実よりよっぽど本当に近いウソというのがたくさん存在し、それを外に出したい気持ちが強くあります。まさか現実世界で口から出まかせばかり言いふらすわけにもいきませんから、創作物の中で大量に本当のようなウソ、ウソのような本当を活性化させたい思いが強い。
 現実の事件はそのままの形ではなかなか赤裸々にできません。そこでウソの衣を着せて発表する。
 
 もう40年以上昔の話なのでどなたにも迷惑はかからないと思うのですが、私はあるところで絶対にありえない組み合わせのカップルを目撃したことがありました。1人は私がよく知っている大人でした。不思議としか形容しようがない相手と手をつないであるところを歩いていました。
 当時自分はまだ中学生か高校生で、その出会いに驚いてふと彼らの前に立ってしまった。ところが、私のよく知っている人物は完全に私を黙殺しました。
 
 あとあと考えるとそりゃそうだろうという気がしますが、そのころはなぜ自分を無視するのかわからなかった。まだまだ子どもだったのですね。
 しかし、こうした話をそのまま書いても面白くない。面白くないというのは切り取られた事実だけを投げ出しても物語としてのふくらみが出てこない。そこでもっともっと複雑な前提を考え、意外な組み合わせで人間の不可解さを表現したくなってくる。
 
 文学とか文芸とかというものは、本質的な人間の不可解さを説明ではなく描写によって表現するものでしょう。ウソの中に真実が宿る。真実が宿らないウソというのもありますが、それはつまらない。真実以上のウソを心の底に飼い続けて生きてきた。それが試される瞬間が作品なのではないかと考えています。
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2019.11.30 09:10

 どちらがよくてどちらが悪いということはまったくないのですが、世の中に粋だとか野暮だとかという価値観がありますね。どちらも極端になるといろいろ問題が生じてくるように思います。どちらをどの程度好むかはそれぞれの気質にもよるのでしょう。
 若いころの私は、野暮ったい空気が非常に苦手でした。世間一般では野暮とは言えないようなことでも野暮ったく感じる傾向がありました。
 
 野暮を辞書でひくといろいろ面白いことが書かれています。簡単に言えば「洗練されていない」という意味になりますか。あまりオシャレではないということです。
 若いときの自分のように極端になってくると、仲間うちで同じ話題でいつまでも盛り上がっているなどというのも耐え難く野暮ったく感じられました。いつまで同じ話をしているんだよという感じで、周囲が話を繰り返すと群れから離れることが多かった。
 
 仲間にしてみると「変なやつだな」というところがあったと思います。中学高校時代、私は同級生から「無視するなよ」という意味の抗議を何回か受けたことがあるのですが、同じ仲間と同じ話をいつまでもしている状況が許せない心理がありました。
 会話にしてもべたな会話は恥ずかしい。詩的で暗示に富んだ会話がいいのであって、いつどこでだれが何をした・・・みたいな話は途中で真面目に聞く気をなくしました。ふんふんうなずいていただけです。
 
 友だちができないのが当然であって、むしろ友だちなんか少ないほうが粋みたいな勘違いまであった。仲間がたくさんというのは、野暮ったくて見ていられないという気持ちでした。
 その後多少は常識みたいなものも身についてきて、とりあえずまともな生活も可能になったのですが、野暮ったさへの恐れはつねにどこかに隠れていて、たとえば集団で飲んでいても私はふと1人で帰ってしまったりします。
 
 どなたにも挨拶せずさっと帰ってしまう。酔っぱらっているので大胆になっている面もあるのですが、ふと消えるのが粋である気がするのです。
 家族には自分が不意に死んだときは一切どこにも連絡せず、最短である業者さん(チラシを見つけてとってあります)に連絡して、またたく間に散骨してもらってくれと話してあります。野暮ったく集まられたりするのは耐え難い。長野? そんな人いたっけ?  というのが究極の粋という気持ちがあるのです。
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2019.11.28 01:19

 料理に関していろいろな時期がありましたが、現在の私はやらない方向に来ています。一時期、得意になりたいと真剣に考えたことがありまして、ちょっと作ったりしていました。もちろん趣味的にということですが、どうも向かないような気がしてきた。やればもっとできるようになるかもしれないものの、ほかのことをやったほうがいいような気がしたのです。
 いくつか理由はあり、他者との比較で感じたこともありましたが、ここでは省略します。
 
 テレビの料理番組を見るのは、子どものときから好きでした。いまはユーチューブで料理関係のものをいろいろ見るときがあります。何だこれ? みたいな映像も中には混じっていますが、けっこう面白いものもあります。
 先日、チキンラーメンを使ったチャーハンというのを偶然見つけました。チキンラーメンを粉々にして湯戻ししておきます。普通のチャーハンを作り(卵とネギぐらいで)チキンラーメンをぜんぶ入れる。味つけはコショウとうまみ調味料だけでした。
 
 ホンモノのチキンチャーハンみたいだと作った方はおっしゃっていた。何だかおいしそうに見えたので、ぜひやってみようという気持ちになった。じつはすぐに作ろうと思ってキッチンをうろうろしたのですが、あいにくチキンラーメンはありませんでした。
 他の動画でおいしそうな湯豆腐もありました。これがホンモノの「湯」は使用しないのです。日本酒を使う。完全に日本酒のみです。
 
 日本酒の中にわずかに油を加えます。ごま油でしょうか。そして豆腐を入れる。かなり日本酒の味が強いのではないかと思いますが、味が深くてコンブでダシをとる必要はまったくないという話でした。
 ポン酢と薬味で召し上がっていました。これまたぜひやってみたいと思いました。料理酒でいいのでしょうが、少しいい日本酒を使ってみたらどうなのでしょう。休みの日に食べてみようと思っています。
 
 以前も書いた話ですが、私は幼児期「男の子は台所に入ってくるものではない」という育てられ方をしました。封建的な時代だったのですね。母親からはっきりそう言われたのを覚えています。何となく母のそばにいたくてキッチンに入っていくと、男なのだから外に出ていなさいと言われた。妹は何も言われていないので、うらやましく感じたものでした。
 いまはそんなことを言う親はいないでしょう。むしろ料理ぐらいできないようでは困ると言われるのではないか。この件に関しては、いい方向に時代が変わったと思います。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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